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2020結局 5カ月ぶりの更新。

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前回のブログの最後。2016年夏。タワー跡地タワーオブライフに使用されたジョイントが突如現れたの如く書いた。記憶的な暑さの中、フェンスの遥か彼方に蜃気楼の如く現れたジョイント"オブ"タワー"オブ"ライフ。

もしかして場所を変えながらタワー跡地にあったのではないか?と推測する。跡地は絶えず変化していて、ある時は瓦礫が積み上げられていたり、建設事務所が建っていたりして、その陰に隠れて気付かなかったのでは無いか?

写真は2010年2月。鉄鋼館がEXPO70パビリオンとして公開される2週間程前の写真だ。タワーオブライフに使用されたパネルはブルーシートが被され70パビリオン内に移動されていたのを外から確認出来た。ジョイントは跡地に転がされたままで何故一緒に展示されないのかなぁと思っていた。


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2007年4月位。突如として手前に常設(と言って良いか解らないが)されていたジョイントとポールと共に創建当時のメタルカラーに塗替えられた。

エキスポタワーは創建当時はシルバーだったと言われるが当時の写真を見るとジョイントはダークグレーだった。更にキャビンをつなぐジョイントとポールや階段部分は白、キャビンの一部はオレンジに塗られていた。







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メタルカラー化直前のキャビンとジョイント。1972年再公開時に白と赤に再塗装された。



2003年ヤノベさんによりタワーオブライフと言う作品に変わったキャビンのパネル。実は個々の廃材には手が加えられていない。限定された部材を組替えられて作品は作られた。元の個はオリジナルを保ったままだった。


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こちらは2006年5月の位置。この作品により、なかなか見る事が出来なかった屋根部と内側を見る事が出来た。

キャビンは大部分が凹の面が表を向いていたからくすんだシルバーは元は内側をだった部分。只屋根部は雨が溜まらない様凸部が表を向いていた。赤のパネルは屋根部分だった事が特定できるしタワーの柱に塗られていた赤...在りし日のタワーを思い出させる馴染みのあるくすんだ赤の生き残りでもあった。

熟れ切った果実が落ちてきたとの表現は言い得て妙で、パネルは裏表にされ組替えられただけなので、元々こんなキャビンが1つ付いていたかも知れないし実際にタワーがメタボリズム化されたら、こんなキャビンになった可能性は結構高い。


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現在のタワーオブライフのパネルは再び凹が表に向けられ組み替えられているが何か元キャビンの雰囲気が全く無いなぁと思っていたら、ああ...パネルをつなぐポールとジョイントが無いせいなんだと思った。

結局解体の時にはこれらタワーの一部は保存されずヤノベさんの作品となったパネルが偶然にも残されメタル色に塗変えられたものが組替えられ展示されている。

ヤノベさんが作品を制作しなかったら残っていなかったタワーの部材である。
これも最初はパビリオン内に展示されていたが表に出されてしまった。


前回書いたブリュッセルのアトニウムのパネルの一部は1000ユーロで売りに出されたそうだがキャビンのパネルも販売して欲しかった。



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さて今回の本題は突如現れたタワーオブライフに使用されたものでは無くずっとこの場所にあるもうひとつのジョイントとポール。これらは一体いつからこの場所にあったのだろう?

タワーと同じ部材だがタワーの一部ではなかった部材。組み立てる時に余ったものなのか元々見本の様なものだったのか予備品だったのか?









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左の写真。公式記録にも白黒の写真が載っているが万博当時、タワー下にジョイントが展示されていた事が解る。後方にはペプシ館も見える。この時のジョイントが跡地に現在も残るジョイントなのだろうか?

このジョイントがタワー跡地にずっとあるものと同じものと考えるのが妥当なのだろうが確信が持てない。大きな違いとしてコンクリートの台座の形状が違う。

台座とジョイントに銘板が付いている事が確認できるが、台座そのものが違うのと銘板が確認出来ない。コンクリート製の台座は移動する時に壊れてしまったのか?

台座の銘板には”エキスポタワーを支える鋳鋼製ジョイント”と記されている。ジョイントに付けられた丸い銘板には日本鋳造(株)となっている。この銘板の存在が決めてとなる筈だがこの位置から確認する事は出来ない。

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大阪万博当時、エキスポタワーを意識した事は無かった。もしかしたら知らなかったのかも知れない。だから、くすんだ赤と白とサビ色の配色こそが私にとってのエキスポタワーの配色だった。

元は極彩色や金色だった仏像の色が退色し金箔が剥がれた現在の姿の方が違和感が無い事に近い感覚と言うか2000年30年の時を経て再会した時のくすんだ赤、サビ色が混じり所々元のシルバーが見えた白の方が馴染みがある。

エキスポタワーが赤白だったのは地上60メートルを超える構造物は東京タワーの様に赤白に塗装しなければならないと言う航空法の規制がある為だ。東京スカイツリーや高層ビルの様に航空障害灯を代替設置する例もある様だ。

ここでエキスポタワーの赤と書いている赤は調べてみると「インターナショナルオレンジ」と定義されている赤に近い鮮やかな朱色なのだそうだ。

解体時に採取されたパイプの素地を間近で見る機会があり、その時驚いた事がある。解体で白の塗装が割れた鋼材の素地を見ると全くサビていなかったのだ。つまりパイプ表面の俗に黒皮と呼ばれる酸化被膜によってサビから守られていた訳だ。

タワーがサビだらけに見えたのは一部腐食した箇所から流れたサビ汁が汚したものの様な気がする。

航空法の規制があったと言う事は、あのくすみ方から見て塗替えしなければならない時期だったのではないか?とも思うけどその予算も無かったのかも知れない。壊す予算と維持する予算の選択の中で壊す方が選ばれた訳だ。





# by banpakutantei | 2020-12-29 13:35 | 万国博 | Comments(0)

幻のせんい館人形をさがせ!リターンズ番外編からの○○完結編。

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”幻のせんい館人形を探せ!リターンズ番外編”は1958年ベルギーブリュッセル万国博のシンボルモニュメント アトミウム。行ったのは2018年5月。

ブリュッセル郊外、地下鉄 Heysel駅を降りるとすぐ前に建っている。ブリュッセル万博については詳しくないので多くを述べる事は出来ないけど万博にはやはりシンボルモニュメントは必要で閉幕後も残すべきだなぁと感じた。

太陽の塔のお土産は大阪中で売っている訳ではないがアトミウムのミニュチュアは小便小僧の置物と共にブリュッセルの何処でも沢山売っていた。此処で買ってこそ意味があると思いアトミウム売店で購入したが街中で売っているものと同じものと思われる物だった。ただトランクに入れるとかなりのスペースを取りそうな銘板の付いたものも、あったので今思えば無理して持って来れば良かったなぁとも思う。



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アトミウムは2002年から2004年まで改修工事が行われ当時のアルミニウムの球体パネルがステンレス製に変わったそうだ。この改修工事で万博当時のアルミニウムパネル約2メートル角が1000ユーロで売られたそうだ。

太陽の塔黄金の顔のカケラは小さくされ販売された事があるが約2メートル角の大きさとは置き場にも困るかも知れないけど何とも羨ましい。

球体窓から見たブリュッセル万博会場跡地。眼下には万博会場が広がっていた筈で当時の画像を見るとアトミウムの下をロープウェイが動いていた。大阪万博会場でもロープウェイが運行されていたけど、この頃既に見本があったんだなぁ。

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帰ってから調べてみるとアトミウム周辺には他にも万博遺構が残っている様だけど準備と現地での時間が不足していて確認する事が出来なかった。当時のエスカレータも一基残っている事は帰ってから知った。

私が未だ生まれていなかった1958年。日本では長嶋茂雄がデビューし売春防止法が施工され東京タワーが施工された年だった。ブリュッセル以降の国際博覧会としては1962シアトル、1964ニューヨーク、1967モントリオールを経て1970大阪万博となる。ブリュッセル博は大阪万博12年前に開催された

球体の上部まで一気に登るヨーロッパ最速と言われるエレベーター。本体は当時のものとは違うだろうが、この方式だと多分多くの人数を運ぶ事は困難だったのでは無いかと思う。




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大阪万博12年前の万国博覧会。当時のアトミウムの展示はどの様なものだったのだろうか?と調べてみたが上層階にレストランがあった事は解ったが英文欧文で書かれているのと内部の写真があまり見当たらなくて詳細は解らない。眼下の眺望を楽しむ展望台としての機能がメインだったのだろううか?

エレベータホールを出ると展望室となる。上部にはレストランがあった。公開されていない球体も幾つかある様だがエスカレーターや階段を利用して各球体を移動する様になっている。


球体から球体へ渡るチューブ内。動画を撮影していたので写真が無いがSFチックな演出のエレベータもある。




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球体内にはブリュッセル博の記念品の展示しブリュッセル博を記念するコーナーもあった。大阪万博より12年も早く開催された博覧会のシンボルモニュメントは、現在でもかなりの未来感を感じさせる。

この様な球体を1つ組み込んだ建物は日本でお台場のフジテレビ、藤沢の湘南台文化センター、名古屋市科学館プラネタリウムなどにも見られる。何れもこのアトミウムを参考にした様に思える。







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今回唐突にアトリウムの話題なのかと言うと...それはベルギー出身の画家ルネ・マグリットつながり。期間限定?で球体の一つはルネ・マグリットのコーナーになっていた。

マグリット人形を知るまではルネ・マグリットの事を知らなかった。ルネ・マグリットの作品があってこその大阪万博せんい館のマグリット人形。写真に写る顔の無い男に顔を与え人形にしたのがマグリット人形。

この絵から、あの不気味な表情を創造した四谷シモンさんの発想力。ブリュッセル万博遺跡の中に展示される大阪万博展示のモチーフとなった作品展示。此処に日本のマグリット人形が並んだらなんて想像しているだけで、ワクワクした。



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マグリットには”ゴルコンダ”と言う顔のある紳士が空中に沢山浮かんでいる絵もあって、こちらの方がせんい館に近いのかなぁ。

写真はアトミウムの入場パンフレット。高さは102メートル。エキスポタワーは127メートルだったけど一番上の展望室の高さは、大体同じ位かなぁ。球体とキャビンだけど幾つかの展望室が個々に配置されている処が似ている。









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アトミウムで買った冊子に写っていたリニューアル工事中の写真。2002年にリニューアル工事が行われる前はどんな感じだったのだろう?1958年ブリュッセル博閉幕後アトミウムはずっと公開されていたのだろうか?

冊子は英語とオランダ語表記となっているが閉幕後のアトミウムがどうなっていたのかを読取る事が出来なかった。大阪万博のエキスポタワーの様に会期後一旦閉館し、その後再公開されたのだろうか?エキスポタワーの場合、1972年の再オープンから1990年の再閉館まで公開されていたがアトミウムの場合どうだったのだろう?







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冊子に出ていた一枚の写真。これは...苔。あっ!と思った。これはあの大阪万博施設の写真と同じ風景。

アトミウムの球体内部には苔が生えていた。使用されなくなったキャビンと球体に生息していた苔。これは偶然なのか、元々この様な場所には苔が生えてくるものなのか?

この様な状態と言う事はリニューアル迄一般人の出入りが無かったと言う事ではないだろうか?グーグル英文訳が正しければこの球体は数年間もの間放置されてきたとある。それがいつからなのか解らないが博覧会後も公開されていたアトミウムもいつの頃からか中に入る事が出来なくなっていたのでは?




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あの万博施設の写真。それは大阪万博エキスポタワーキャビン内部。2003年開催されたヤノベケンジさんの個展「MEGALOMANIA」(誇大妄想狂)のポスターにもなったタワー内部。 再閉館し人の出入りが無かったキャビン。老朽化で出来たパネルの隙間から胞子が舞い込み苔やシダが生息していた。

黄色のアトムスーツを着て封印されたキャビン内部にオフィシャルに佇むヤノベケンジさんの羨ましい風景。

この展覧会でヤノベさんはエキスポタワーのキャビンのパネルやジョイントなど廃材を使用し「タワーオブライフ」と言う作品を作った。降ろされたキャビンと言う「落ちてきた未来の果実」の中に生息していた苔も未来へ伸びてゆく生命体として作品の一部となった。




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タワー解体が2002年、アトミウムのリニューアル工事が2004年。撮影はその直前としてほぼ同時期、日本とベルギーの2つの無人となった万博遺産内空間に生息していた苔。片やリニューアル片や解体と言う。真逆の運命を辿った万博のシンボルタワー。

100メートルの高さから降りてきた未来の芽は、そこからまた未来へ向かって伸びていく筈だった。タワー解体から、早18年となる2020年。今だったら解体を逃れたかも知れない。あと少し待ってくれたらなぁ。

会期終了後キャビンパネルで作られた作品外周部はタワー跡地に置かれ「MEGALOMANIA」と刻まれた石碑が傍に設置された。その後、石碑は消え「タワーオブライフ」は敷地内の元々タワーの部材があった場所に移動され、何故かまとめて当時のシルバー色に塗り替えられた。

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そして元タワーオブライフとなったパネルは2010年新装開店した鉄鋼館EXPO70パビリオンに元エキスポタワーとして、パネルの表裏を組み換えられて屋内展示室ホワイエ奥に展示されたが現在は建物入口脇の屋外に出され何とも不遇(私にはそう見える)な余生を送っている。

元タワーオブライフの呪縛を解くため解体し、もう少し重要文化財並の扱いをして欲しい。もっと廃材を取って置いてくれたら70パビリオン内にエキスポタワー記念室位出来た筈。非常に残念だ。

タワー解体から14年の2016年夏。久しぶりに訪れたタワー跡地。これまでも跡地は何かしらの変化をしていて多くの謎かけをしてきたが今回はアスファルトの残骸が盛ってあった。そしてそのアスファルトの向こう側に「あっ!」思わず唸った。


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あれはタワーのジョイント。何故此処に?

ズームしてみる。これは...元「タワーオブライフ」の部材となっていた元エキスポタワーのジョイント。そしてその横には一旦消えた筈の「MEGALOMANIA」の銘板が。またもやの”タワー跡地からの謎かけ”。

今頃何故この場所に?何度か跡地に来ていたが以前は無かった。(筈)その日は記憶に残る程の酷暑でまるで蜃気楼でも見たのかと思った。

「タワーオブライフ」のパネルは一時この場所に戻って来ていたと書いたけどジョイントは初めて見た。一緒に使われたエレベーターのパネルも残っているのかなぁ?

2019年11月の時点で、この状態は確認出来ているが東京の菊竹事務所以外に残っているタワージョイントは、もしかしてタワーオブライフに使用されたこの1個だけかも知れない。

重要文化財級博物館行きのタワーのジョイント。何故此処にある?と問えばタワー跡地だからと言う理屈もある。「MEGALOMANIA」(誇大妄想狂)の石碑が何故此処に?と問えば...?だけど、タワーがあった空間を見上げ「あぁ。残っていたらなぁ」と妄想している。しかしキャビンに生息していた苔...何処かで生きているのかなぁ?と更に妄想してみる。


タワー跡地に関してはタワーオブライフの今とかタワー跡地の今 とかタワー跡地の今リターンズとか帰って来たタワー跡地の今 とか 色々書いているので良かったら。

# by banpakutantei | 2020-07-13 02:51 | 万国博 | Comments(0)

幻のせんい館人形をさがせ!リターンズ 3。

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幻のせんい館人形をさがせ! 遂にマグリット人形4号まで来た。現在の居所は香川県坂出市の四谷シモン人形館 淡翁荘。入口でお出迎えしてくれる。

これは唐十郎さんの山中湖湖畔の別荘兼稽古場兼倉庫にあったもので、万博終了後シモンさんの元に帰って来た2体の内の1体。

人形館は淡翁荘と呼ばれ鎌田醤油と言う醤油会社元オーナーが昭和11年に建てた洋風の迎賓館。シモンさんの人形の住処にピッタリな場所。人形館は2004年の開館だがマグリット4号は2011年にやって来たそうだ。

現存が確認されている内の1体がシモンさんの人形館と言うあるべき場所にある事実。大阪万博以来、巡り巡って此処に納まった奇跡とも言える。 












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(すいません)ネットで拾った画像。マグリット4号が唐十郎さんの湖畔の別荘にあった時のもの。この場所で、この人形を見た人は極僅かなのではないだろうか?

現存する4体の他に万博終了後に確認されているが、その後幻となったものもある。幻1号2号は大阪平野区のテーラーにあるマグリット1号と共に貰われてきた3体の内の2体。

内1体の幻1号は前々回マグリット2号なのでは?との仮説も立てたが裏付けるものは無い。幻2号は中身がどうなっているのか解体実験されてしまったそうだ。







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幻3号は倉敷の倉紡記念館に行った一体。万博終了後に発刊された記念誌”せんい館”には大阪万博でのせんい館を末長く伝えて行くべく”せんい館”特設コーナーを設ける予定と記載され、展示されていた大しめ縄と共にマグリット人形も展示されるイラストが見える。

現在も倉紡記念館はあるが、せんい館の特設コーナーは無い様だ。ネットで画像検索してみると大阪万博の展示は少しある様だがマグリット幻3号は無い。

せんい館特設コーナーは何時頃迄あったのだろうか?展示されたいたとされる幻3号は何処かで保管されているのだろうか?いかんせん、これも万博閉幕直後となれば約50年も前の出来事。多分リニューアルか何かのタイミングで撤去されたのだろうけど、蔵の街、倉敷。何処かの”開かずの蔵”に保管されている可能性は高い。



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これは万博友達Oさんの証言。千里中央駅ショッピングモール、セルシーの、この付近にあった洋品店の前にマグリット人形はあったと言う。写真は2006年のものだから当時とは別の店舗かも知れない。

Oさんの記憶力は抜群なのと、当時の記念協会の方からも「確かにあった」との証言も得ているけど、これもやはり約50年位前の話。これが幻4号。









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2016年10月、日経に出ていたマグリット3号。持ち主のビリケン商会三原さんへの取材記事。ビリケン商会は日本で最初の古いおもちゃ専門店として1976年にオープンしたが現在ではガレージキットの企画販売も行っている。

販売と別に個人的に昭和40年代のものの収集を約40年続けているそうだ。そんな品物に囲まれた生活..憧れる。で写真の中に見つけたマグリット人形。

ガレージキットで販売してくれないかなぁ。15体(シモンさん説)並べてせんい館の世界を再現したいなぁ。






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ビリケン商会三原さんの記事の横に載った「文化往来」と言う記事。明治時代に起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって離れ離れになった対の仏像...廃仏毀釈とは仏教寺院、仏像、経巻を破毀(はき)し仏教を廃することを指し「廃仏」は仏を廃し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊す仏教弾圧運動の事。

奈良興福寺の五重が、25円とか250円で売りに出された話が有名だがこれにより日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。

何故この様な事が起こってしまったのかは様々なサイトに出てけど奈良の風景に欠かせない興福寺の五重の塔も無くなってしまっていたかもと考えると、ゾッとする。亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、奈良入江泰吉「奈良大和路」和辻哲郎「古寺巡礼」以前の出来事である。








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興福寺の仏像も2000体以上も無くなってしまったそうだ。きっと全く想像出来ない素晴らしい仏像も含まれていた事だろう。そう考えると今残っている素晴らしい仏像の数々、よくぞ残ってくれたなぁ。

阿修羅、北円堂の無著、世親像などを明治21年に撮影した白黒写真がある。それらは現在と違い一緒に並べられ、阿修羅を撮影した最初の写真と言われているが、その腕の何本か折れてしまっていて現在の様に合掌していない。廃仏毀釈との関連は解らないが興福寺がいかに荒廃していたのかが解る写真でもあった。


廃仏毀釈で無くなってしまった寺院や仏像、荒れた講堂に立つ腕の折れた阿修羅の白黒写真にエキスポタワー、万国博美術館、ホール等々の万博遺産の撤去を重ねてしまう。エキスポ70パビリオンとして復活した鉄鋼館や公開された太陽の塔内部の生命の樹、行方不明の地底の太陽など、似た様なものだった。

記事は廃仏毀釈で離れ離れになっていた仏像が何と112年ぶりに対で展示されると言うものだ。

万博閉幕後離れ離れになって15体とも20体とも言われているマグリット人形。半数以上の行方が解っていない。運び出されぬまま、せんい館と運命を共にしたものもあったと思われるが、何時か新たな兄弟が発見される可能性もある。










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確認されているマグリット人形4体。いつか一同に会し並ぶ機会が無いかなぁ。只、元の場所に戻る時解らなくなってしまうので一応何処かにナンバリングしておく事が必要だ。


# by banpakutantei | 2020-04-26 18:24 | 万国博 | Comments(0)

幻の せんい館人形をさがせ!リターンズ2。

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前々回、私が実際に見た順番に付けた№1号、2号の大阪万博せんい館のマグリット人形。現存するのは4体とされている内の3号、4号について。

2020時点での居場所は3号は東京青山のビリケン商會さん。4号は四国香川県の四谷シモン人形館にあるが元々この2体は大阪万博終了後作者の四谷シモンさんの元に戻って来たものらしい。

ビリケン商会さんの展示で数年ぶりに人形と再会をした四谷シモンさん。そのページに頂戴したシモンさんのサイン。この時は2体しか残っていないと思っていたそうだ。

著書によれば万博終了後、役者でもあったシモンさんのアパートに2体のマグリット人形が戻ってきたが置き場も無く、出演していた状況劇場の唐十郎さんに引き取ってもらったそうだ。

マグリット人形は唐さんから「ヨーロッパ」と名付けられ「吸血姫」と言う公演の舞台装置として登場した。ヨーロッパ」...それはこの姿からイメージしたのか、ルネマグリットがベルギー出身からなのか現在のEU諸国を全部一緒にして「ヨーロッパ」としたのかは解らない。






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写真は四谷シモン人形館のリーフレットから。「吸血姫」は京都、仙台、渋谷、吉祥寺を巡業し渋谷ではパルコが建つ前の駐車場だった土地にテントを張り公演したそうだ。

写真は多分渋谷の時のもの。この頃の渋谷は未だ薄暗い町だったそうだ。駐車場に立つ「ヨーロッパ」 。シュール以外の言葉が浮かばない。舞台に登場したのは2体中の1体だったそうだ。







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「吸血姫」の舞台。手前が女形に扮したシモンさん。この公演は大変な人気を博したそうなので、当時見た方も多数おられると思う。どの様なキャラクターとしてマグリット人形は登場したのだろうか?

この公演の終了後、山中湖畔に建てられた唐さんの「乞食城」と名付けられた稽古場兼倉庫の完成パーティの日に運び込まれた。なんとその日の天候は大嵐だったそうだ。湖畔の別荘に大嵐の日に運ばれたマグリット人形。ドラマのワンシーンの様だ。

この時点で別荘にあったマグリット人形は2体。この内の1体が2000年に開催された「四谷シモン展」で展示され会期終了後、ビリケン商会がシモンさんから購入したのだそうだ。この人形はビリケン商会さんでも展示され、埼玉、東京、千葉でも展示された。

つまり、この1体が見た順番からすると私にとってのマグリット3号となる。「吸血鬼」に登場したものが3号か4号かは解らない。

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2012年、埼玉県立近代美術館「日本の70年代」展のリーフレット。せんい館のスタンプの印影とマグリット人形。

意図したものなのか帽子からレーザー光線の様に文字が飛んでいる。

1つ下は2015年、東京国立近代美術館で開催された「大阪万博デザインプロジェクト」での展示。この時はガラスケースに入れられていた。展覧会の図録の表紙は、ありがちな太陽の塔では無くエキスポタワーの渋い白黒写真となっている。

その下は2018年千葉市美術館での「1968年 激動の時代の芸術」展での展示。埼玉の内容と結構似ていた。台座にはシモンさんのサインが見える。これは貴重だ。



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「大阪万博デザインプロジェクト」の図録を読み返すと、横尾忠則さんの寄稿が載っていた。当時未だ大企業からの依頼は殆どなくマイナーな劇団や出版社の仕事が中心で、どちらかと言うと反博派の横尾さんの元へ舞い込んだ国家事業、万博。経験のない建築の仕事だったが、一世一代の大仕事。未知のジャンルではあるが挑戦的な意欲に後押しされ引き受けたとある。

建設途中の状態で凍結したい衝動に駆られ、それを実現させる経緯。工事の人形の型は人体モデルから取った話など、横尾さん自身が寄稿されている事が興味深いし、せんい館はどこまでが...どれとどれが横尾さん作品なのかが解る。

せんい館前に建っていた、映画看板だって、どう見ても横尾さんの作品だけど裏付けが無いなぁと思っていたけど、やっぱり横尾さんのものだと解った。



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パビリオンの中には四谷シモンさんのマグリット人形が並んだり、植松国臣さん、秋山邦晴さんが携わっていたり、パビリオンの頭部などには吉村益三さんが作ったカラス(そう言えば横浜美術館が吉村さんのカラスを保有しているんだけど万博の時のものか解らない)が置かれた。

色々な方が携わったにせよ、せんい館は横尾”ワールド”パビリオンであった事に間違い無い。そして...当時酷評されたと言うが現在評価の高い、せんい館に入っていない当時の私...。

2025年 第2回大阪万博。是非 横尾さんに、新しいせんい館を作ってもらいたい。マグリット4号は、また次回 幻のせんい館 人形をさがせ!リターンズ3にて。

# by banpakutantei | 2020-04-06 01:06 | 万国博 | Comments(0)

祝 EXPO70パビリオン開館から10周年。

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大阪万博50周年の今年2020年。一般的には大阪万博50周年がクローズアップされているけど、10年前大阪万博40周年の本日3月13日はEXPO70パビリオン開館記念日。祝開館10周年となる。遂数年前の出来事かと思っていたらもう10年も前の出来事。

写真は万博記念公園駅の横断幕。解体の噂が絶えなかった鉄鋼館が万博メモリアルを核としたEXPO70パビリオンとして復活するニュースを聞いたのはいつの事だったのだろう。

何処かで何かの力が働いたのだろう。あの時の嬉しさと言ったら...万博メモリアルパビリオンの開館と言うよりも鉄鋼館が残ったって事の方が嬉しかった。1970年以来一般人には閉鎖されたまま秘境となっていた鉄鋼館の解放。10年前には何を書いていたのかなぁと見直してみれば相変わらず”EXPO70パビリオン開館まで”などとカウントダウンしていた。



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開館記念式典への一般人の参加は抽選で行われたと思う。万博友達のYさんから誘っていただいたお陰で参加する事が出来た。今でも凄く感謝している。参加出来て本当に良かった。

当日の天候は今にも雪でも降りそうな寒々とした見事な曇天で、それはそれで大阪万博開幕式前日をイメージさせた。










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記念式典でのテープカットシーン。故堺屋太一さん、コシノジュンコさん、橋爪さん、河内屋菊水丸さん、嘉門達夫さんなど、そうそうたる万博関係有名人。

片や客席を見れば、そうそうたる万博ファンが多数列席されていた。記念式典に列席するなんて”かなりな万博ファン”以外にいないので至極当然の風景でもあった。

会場で流れた”世界の国からこんにちは”には本当に感動した。万博男の万博年表においてあの日の記念式典への列席は深く刻まれている。





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写真は当日テープカットに使用されたリボン。鉄鋼館からEXPO70パビリオンと名を変えた記念日。鉄鋼館は元鉄鋼館となったけどパビリオンは元パビリオンでは無く名前からしてパビリオンと言う名前が付いていた。

10年前のブログに書き損なってしまったので、万博探偵事務所資料室(秘公開)で熟成させていたEXPO70パビリオン10周年の、この日の為に取って置いた歴史の舞台で使用された貴重な逸品。







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当時も書いているけど、この日見た展示品で一番の衝撃。幻のスカンジナビア館の幻のスカンジナビアンパビリオンのパンフレット。石狩に移築されたスカンジナビア館改めスカンジナビアンパビリオンのパンフレットが何故此処に?オープン後万博記念協会に送られてきたのかなぁ?

「これはスカンジナビア館のものでは無く石狩に移築されたスカンジナビアンパビリオンのパンフ....なので(凄く興味があるので)中身を見せてもらえませんか?」と係の人にお願いした処、「間違えていてけしからん!」と解釈されたのか、このやっとお蔵から出てきた幻のパンフレットはその後他のものに変更され、再びお蔵に入ってしまった。




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鉄鋼館のホワイエはマニアエキスポなどのイベントで開放される事があったが”紅の回廊”からの内側、音楽堂の公開は一般人的には1970年以来の事となる。まさにレッドゾーンへの突入が実現した訳だ。

開館が待ちきれず約一か月前にも訪れた時、鉄鋼館裏には内部改造で出た残骸が幾つか落ちていた。その中には紅の回廊の一部と思われる深紅のカケラも発見した。








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そんな節目となる開館10周年。現在の企画展は「知る、見る、遊ぶ太陽の塔」。パビリオンでは何か記念イベントがあるのかと思いきや...特に何も無さそうだ。

更にコロナウィルスの影響でパビリオンは本日も閉館したままだ。太陽の塔内部公開も閉鎖中。仮に記念イベントがあったとしても中止となっていただろうけど、コロナの影響があっても無くても残念ながらイベントは行われなかった様だ。



コロナで休止中だが、現在行われているイベントの案内にも10周年の文字は見当たらない。この10年、全部でいくつ位の特別展が行われたのだろう?年2回、行われたとして20回もの特別展が開催された訳だ。

思い出してみると面白い企画が結構あった。パビリオンでやる以上、万博に特化した企画な訳でネタも出尽くし気味かも知れないので企画作りにもかなり苦労しているのでは無いかと思う。

”エキスポ70パビリオン、10年の歴史を振り返る。”なんて振り返ったら今年中にも書ききれないかも知れない。

EXPO70パビリオン10周年の、ノーアナウンス。まさか 私の勘違いで10週年は来年なのか?1.2.3と指を折って数えてみたがやはり今年が10年。まさか関係者の誰もが憶えていないのか?

10年前の今頃書いていた事はこのあたり。
























# by banpakutantei | 2020-03-13 03:49 | 万国博 | Comments(0)