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岡本太郎と信楽3~坐る事を拒否する椅子

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昨年、幸運な事に”坐る事を拒否する椅子”通称、拒否椅子を友人から入手する事が出來た。1963年、52歳の時に制作、翌年の個展で発表された作品。発表から既に60年以上も経過するも未だ人気を博している。

ちょうど長い道の道中で道ばたのごつごつした木の根っこや石ころの角などに腰をおろす かたい肌ざわり あの気持ちよさである 抵抗してくる物質感のよろこび それに 椅子といっても ながめる時間のほうがはるかに豊かで幅ひろい だから それ自体が芸術でなければならない 赤・黄・青 とりどりの原色をつかって使う人が自由に配置できるように考えた 青い芝生の上で 見事にさえるだろう
(1964岡本太郎展図録より抜粋)

拒否椅子の意図する処は様々な解釈がされているが上が太郎が拒否椅子とは何ぞやと最初に語った言葉だ。

上面が顔になっていて、ゴツゴツしていてずっと坐っていると辛い椅子。とは言え私の手元にあるものは、割と座り易い。陶器なのでずっと座っているとお尻が痛くなってくるけど上面に突起物が無いので実際、座りにくくは無い。只、形状はどうであれ、そもそも顔の上に坐る事は躊躇するものだ。

拒否椅子について幾つかの疑問を持っていた。様々な書籍資料を読んでもみても、なかなかその疑問を解決する答えは書いていなかった。

プロダクトデザインでもある拒否椅子って、そもそも一般販売されたのだろうか?販売されたとしたら幾らだったのか?とか一体何個位作られたのか?全部で何種類あるのか?等々...。



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今回で3回目となる2022岡本太郎と信楽展。2017年以来5年ぶりの開催となる。今回の展示の目玉となるのが”坐ること拒否する椅子”の素焼きと型の展示。


拒否椅子のキャプションには1963年と付くが、それは発表年であり現在見ることが出来る現物が全てが同じ時期に作られたものでは無い。私もずっと全ての拒否椅子を一括りにしていたが実は製作年代は1960年代~のものと1990年代~のものがある。

拒否椅子は量産が可能な工業製品と言う性格もあるので、型と許可さえあれば幾つでも作る事は出来る。






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今回の展示のメインである拒否椅子の素焼き状態のものが16種。色付けされ本焼きされる前の状態の製作途中のものだ。実は数年前、信楽の某所でこれら素焼き状態の拒否椅子を見させていただいた事がある。何しろ驚いた。許可を得ていなかったのでブログで公開する事は出来なかったけど、まさか出展されてくるとは..。


今回、当時の製作に携わった方とお話させていただき拒否椅子の疑問、当時のエピソードを聞く機会に恵まれ”拒否椅子の作り方”も説明していただいた。

製作工程をおおまかに説明すると粘土を型に沿って貼り付け、その後 型を外して素焼き、本焼きの順で進められる。

素焼きとは型から出した作品を一旦800度位で焼き水分を飛ばす事を言う。この後 釉薬(ゆうやく)と呼ばれる上薬で色を付けた後、更に高温の1200度位で焼く。拒否椅子は2色3色のものもあるが、これは各色マスキングを施して色付けするのだそうだ。


これら博物館行きと言っても良い貴重な品々...信楽の宝、今回の展示が終了すれば又元の場所に帰っていくのだろうが是非とも陶芸の森資料館で常設展示して欲しいなぁ。












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通称”ギョロ”。 このタイプの赤色が一番有名で人気があるのではないだろうか?拒否椅子と言えばこのタイプが紹介される事が多い。

”ギョロ”は色々な場所で見る機会があるけど、それ程、沢山ある訳でも無く、もしかしたら同じ個体が行ったり来たりしている可能性もある。

この椅子には通称があるが他の椅子は名無しだ。太郎が呼んでいた何かしらの愛称があると思われるが、それすら今となっては解らない。








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上銘にリボンの様なメガネの様なものが付いているタイプ。これは拒否椅子の中でも座り難さは上位になるだろう。上の部分は別の型から取り出され素焼き前に合体される。

私的にはタートルと呼んでいる。何となくミュータント・タートルズに似ていると感じたからだ。













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これが石膏で出来た拒否椅子の型。型にペースト状の陶土を流し込みしばらくしてから中の陶土を抜く。型と接地する部分な最終的に製品となる。陶器の中が空洞なのはこの時中身を抜くからだ。

これがあれば同じものを沢山作る事が出来る。こちらの方がマニア的には貴重かも知れない。

この型を作る為には、その元となる原型が必要だ。原型は粘土で作られるが、それこそがが真に太郎の手が加わったもの。原型こそが太郎作品と言うことになるが石膏で型取りされた後、掻き出されてしまい原型を留めない。焼きあがった製品原型よりも15パーセント程、収縮する為 型は大きめに作られるのだそうだ。



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上面部と胴体部は別々に成型され素焼き前に合体される。その際つなぎ目は焼く前に丁寧に仕上げが行われる。

これらの型によって拒否椅子は量産が可能となった。量産の工法は確立されていたとは言え 只、型に流し込んで焼けば出来上がるものでは無く、各工程様々な技術無くしては作る事は困難で更に太郎作品としての出来栄えの基準も厳しく歩留まりは低かったそうだ。

近年の製作品では僅かなピンホールも厳しく検査されたそうだ。拒否椅子は太郎が作った造形と信楽の技術の調和により完成したものだ。

目指した日常使い 量産可能と言う言い方は、型を使って沢山の量を作ると言う意味もあるだろう。真の工業製品は一定の品質を保ちつつ沢山の数を歩留まり良く生産する事だ。



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型の内側にあるTAROのサイン。凸に出ており完成品は彫った様な形となる。

銀座にある”若い時計台”の設置時の動画を見ていた時、興味深いシーンがあった。それは時計の顔の部分に太郎のサインを張り付ける際、4パーツに分かれた太郎のサインのプレート。太郎はそれぞれのパーツをササっと並べバランスを見て配置していた。

これが原型に太郎自身が刻んだものなのか、太郎のサインから起こされた型が押されたものなのかは解らない。










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上の型から出来あがった赤ギョロと紺ギョロ。色は違うが同じ型から生まれてきた兄弟。太郎と信楽の関係が詳しく書かれた書籍「岡本太郎、信楽へ」を読むと、赤の釉薬こそが太郎と信楽を繋ぐきっかけとなった様だ。

4つ前のブログ「岡本太郎と常滑」にタイル画”ダンス”は太郎の求めた赤が出せず黄色タイルの上に赤が塗られたと書いた。その後制作された都庁の壁画”日の壁”なども太郎の思う赤が出せずにいたと言う。
 
太郎が好んだ血を思わせる激しい赤を再現出来る釉薬が信楽にはあったとされる。それは写真の90年代につくられた”赤ギョロ”の赤なのだろうか?血を思わせると言えば確かにそうだ。これが太郎の赤と証明出来る色見本でも残っていたら、かなり貴重だ。




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こちらは初期型とされる拒否椅子。1963年作と言われ明らかに上のタイプとフォルムが違う。上の90年代に作られたものとの違いが解るだろうか?違いは上面部の丸みの部分だ。近年制作されたものの上面は丸みが強い。

つまり型が違うのだ。初めて展覧会用に制作された拒否椅子の型から作られたと思われる。私の所有する一番上写真の黄色タイプも上面が丸みを帯びていない。

上写真の”紺ギョロ”の隣は私所有のもの、私的には”眼”と呼んでいるものの色分けパターン。一番上写真と比べてやはりフォルムの違いが解る。

90年代のものは初期の型が破損して使えなかった為、新たに作られた型から制作されたものだ。拒否椅子の疑問 次回も続く。 

# by banpakutantei | 2022-04-04 01:56 | 万国博 岡本太郎 | Comments(0)

岡本太郎と信楽2

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なんと信楽で5年ぶりとなる岡本太郎展が開催されるとのニュース。「また信楽で、岡本太郎展開催されないかなぁ。まだ知りたい事沢山あるし。」と思っていた。何という巡り合わせ。

丁度、岡本太郎と信楽つながりで塩漬けになっていた写真を探してきて今回のブログを書いていた処だった。写真は静岡県伊豆半島、西伊豆の景勝地 堂ヶ島にある堂ヶ島温泉ホテルにある陶板壁画「風」。これも信楽産。

行ったのはは2015年。多分、現在も大きな変化は無いと思われる。作品はホテル玄関にある。宙を舞う人、駿河湾から吹く潮風をイメージしていると言われる。抽象的な岡本太郎にしか見えない景色。


                 



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ロビー内での作品の位置はこんな感じ。壁画の隣には売店が併設されている。

ホテル設計者との繋がりで、この壁画が製作されたそうで、信楽で製作し仮組されたものを堂ヶ島まで持ってきた。施工には太郎も立ち会ったそうだ。仮組時に付けた陶板の番号を忘れてしまい、信楽の製作時の助手の元へ電話が掛かって来て急いで駆け付けたと言うエピソードも残されている。

製作は1965年で結構古い。東京オリンピックの為の代々木第一体育館の陶板壁画制作の翌年。万博テーマ館プロデューサー就任前年と言う油が乗っている時期の作品だ。



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作品は「人間と風」と言うメダルにもなっている。

同梱のしおりには「私には人間の運命そのものが風の様に思われる。激しくまた爽やかに時には優しく、かすかにこの世界を吹き抜けていく。私がとりわけ風によろこびを感じるのは生身に挑んでくる、あのドラマティックな肌ざわりだ。瞬間身も心も舞い上がり宇宙と合体する。1977岡本太郎」と書かれている。








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このホテルには「風」の他にもう一つの陶板画がある。作品名は「日の誕生」。この壁画の前にある1面も併せて、ひとつの作品になっているとされている。


黄色の丸は日の誕生の際散らばる光の球を意味しているそうだ。











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左の黒い壁画はナマコの様なナマズの様にも見えるが多分違うだろう。日の誕生した際、発せられた何かなのだろうが何なのだろう?
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「日の誕生」の向かい側の壁にも壁画がある。太郎のパブリックアートを紹介するオフィシャル本には 「日の誕生」の一部とだけ紹介されているだけで、そもそもこの壁画を紹介しているものは少なく写真も小さい。

太郎が描く独特の文字、”太郎の象形文字”にも似ているなぁと調べてみると該当しそうなものは見つからなかった。「若」と言う文字にまあまあ近いかなぁと思ったら、下の写真”顔。背景が赤で無かったので解りづらかったが...

この壁画は”顔”と言う作品なのではないか?調べてみると壁画と同年の1965年製作となっている。「日の誕生」は3面とされているが上の写真が「日の誕生」この1面はその1部では無く「顔」って作品ではないのかなぁ...。



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左の作品「顔」は割りと頻繁に原画を見る機会が多い作品だ。「顔は宇宙だ。顔は自であり、他であり、全体なのだ。そのど真ん中に眼がある。それは宇宙と一体の交流の穴」と語り多彩な顔を描き、造ってきた。○○の顔と名付けられた作品も数多い。

その中でもズバリ「顔」と言う名の作品。同名の作品が他にもあり「顔Ⅵ」と表記されたりもしている。背景は太郎の一番好きな色である”まっ赤”。






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”顔は1970年代に販売された岡本太郎の絵の具の箱やカーペット、ハンドバッグのデザインにも使用されている。他にもあるかも知れない。太郎のプロダクト化された製品に多くの作品の中から使用されていると言うのは、それだけ太郎らしい作品と言う事なのか。

その陶板壁画となれば、かなり貴重なものだ。壁が真っ赤だったら完全に「顔」で決定だろう。

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奥に見える「風」と廊下の壁の「日の誕生」と「日の誕生」の一部とされる作品の配置。こう見ると廊下の左と右で一つの作品と見るにはどうなのか?

太郎が84歳で亡くなる前年の1995年竣工の川崎とどろきアリーナに設置された「マラソン」「マスク」「オリンピックメダル」など、いくつかの陶板壁画も信楽製だが、その内「青空」は「日の誕生」、「風」は「風」をモチーフにし、これら作品の監修は太郎に代わり敏子さんが行ったそうだ。








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左がとどろきアリーナ版の「風」。堂ヶ島版に比べると色数が多い。資料によれば太郎が信楽を訪れたのは1990年79歳の時が最後であったと言う事から、この作品の原型作りに携わっていない。












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こちらが「青空」。確かに「日の誕生」に一部似ているが似ているだけでモチーフにしたかどうかは解らない。鳥の様にも見える。

1954年の同名の油彩画が存在するが、この壁画とは全く違う。1952年の「血のメーデー」をテーマにした作品で、岡本太郎の「青空」と言えばこちらの方を指す。もっとも作品名には全くこだわらなかった太郎にしてみれば「どうでも良い事」となるのだろう。

「日の誕生」をモチーフにしているとなれば堂ヶ島の”ナマコナマズ”の意味のヒントがありそうだが、この水色部分...雲?いや雲は水色では無いし。




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「日の誕生」もしくは「青空」になったと思われる元絵。上がナマコナマズの元なんだろうか?只資料によっては「風」「青空」は元になる油彩画があると書かれている。

そうなると「日の誕生」「青空」は似ていて違うものなのか。











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中学生頃迄、夏休みには伊豆近辺に毎年行っていた。此処では無いが堂ヶ島温泉郷に泊まった事があるし隣接の海水浴場で泳いだ事もある。西伊豆から南伊豆のひなびた感は近年薄れていっているが1965年当時は、まだまだひなびた感満載だった筈だ。

当時の著書「岡本太郎の眼」で、堂ヶ島と壁画について次の様に書いている。

「今私は、海に近いガラス貼りの明るい部屋でこの原稿を書いている。ねっとりと真青に深い、海のひろがり、手前の奇岩に身もだえした波がくだけ、真白なシブキがふき上がる。岩の上に群がる観光客があわてて逃げる。笑い声。



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伊豆の西海岸、堂ヶ島。足の便が悪いので殆ど未開発だった。近頃、温泉も湧き観光地として整備され始めようとしている。

建築家の柳英男に頼まれて、この素晴らしい環境の中に建つ超モダンなホテルに壁画を入れる事になり、ここに来ている。激しく迫る大洋のひろがりに対抗した力強い壁画を作ってくれと言う注文だ。やり甲斐がある。」

文面から太郎も此処に宿泊していた。現在ではレトロ感漂う館内も当時は超モダンだった様だ。ロビーの窓からは堂ヶ島の絶景を見る事が出来る。太郎も、きっと見ていた景色。

そこで西伊豆駿河湾からの風を体感したのだろう。この周辺のひなびた感は薄れたが太郎が見た景色。太郎が感じた風。それらは作品制作当時と変わらずにいる。

# by banpakutantei | 2021-10-31 23:59 | 万国博 岡本太郎 | Comments(0)

信楽”黒い太陽”生誕の地。

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太陽の塔の裏側の「過去の顔”黒い太陽”」。直径約8メートルの、この顔が滋賀県の信楽焼きのタイルで出来ていると言う事は、万博ファンや岡本太郎ファンには、まあまあ知られている。(今回は黒い太陽で統一する。)

太郎と焼き物、立体構造の繋がりは前回、前々回に書いている常滑焼きからスタートし、その後、愛知の日本陶管と言う会社で旧東京都庁の壁画を制作し滋賀県信楽へ移る。






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信楽にたどり着き1963年”坐る事を拒否する椅子”を制作する。前々回書いた、モザイクタイル画「ダンス」製作時、太郎の思う赤が無く黄色の上に赤の塗料を塗らなければならなかった事もあり「信楽ならば望む赤が出せる」と口説かれたとされる。

その後、国立代々木競技場の陶板レリーフの製作を経て太陽の塔「黒い太陽」の製作に取り掛かる。

人気の”坐る事を拒否する椅子”にも謎があり、それは今後書いてみたい。




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太陽の塔の資料を見ると良く出てくるこの写真。”黒い太陽”が完成した時のものだ。完成と言っても未だ塔本体に付けられていない。

以前からの疑問。此処は信楽の何処なのだろう?”黒い太陽生誕の地”...色々調べてみたがピンポイントで示すものは無かった。

結果的に、この場所を確かめる為、決して近くない信楽を3度訪れる事となった。そこが現在、何も無いただの地面だとしても太陽の塔”黒い太陽”生誕の地となれば、それはもう歴史の舞台。その場所は信楽に行けば簡単に解ると思っていた。

最初は2015年、太郎と信楽の関係を紐解く「岡本太郎信楽へ」展に併せて訪れた。”座る事を拒否する椅子”も信楽産だったのは、この時知った。大阪万博終了後、太郎は信楽町の名誉町民にもなっていた。


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「此処は何処ですか?」写真を見せ会場受付の方に聞いてみたが解らず、どなたかにその場で電話で問合せ、教えてくれたのが右写真路地の奥。この路地の奥を行った場所に黒い太陽生誕の地があるとの事。

その会社は既に無く建物もボロボロとの話。付近を探ってみたが特定出来ず。この時乗っていたタクシーの運転手さんも、色々聞いてくれたが解らず。簡単に見つかると思っていた場所は見つける事が出来なかった。

数日後この展示に携わった学芸員の方と連絡が取れ、教えてくれたのは、やはりこの付近。更にその場所は私有地を通って行かねばならずジャングル化しているとの事。そうなんだ。だから色々調べても出てこないんだ...と一般的にはそれで終わりなんだけどジャングル化していても行ってみたくなる気持ちが沸々と湧いてきたのだった。



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万博では”太陽の顔”と名付けられた信楽焼きのお土産が販売された。上が太陽の顔3点セット。当時の金額が¥2.700。現在の金額で¥16.000程度だった。

下の現在の顔が¥500。それぞれ1つ直径13㎝程度の大きさだ。各太陽の顔は額装違いが多数存在する。更ににこの黒い太陽の直径30cm程度のものが現在でも2万~3万位で取引されている。

写真の現在の顔だが色味に若干の違いがある。下の現在の顔が1つで¥500なのに対し上は3点で¥2.700。右の黄金の顔の金額が高いのかも知れない。”未来の顔 純金焼付 永久保存”と印刷されたシールも貼られている。

相当な数が生産され近年、大量のデッドストックが関西の倉庫から出土し万博マスターS氏の元に委ねられイベント等で頒布されている。



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信楽産”太陽の顔”は一体いくつ位作られたのか?「ミニ太陽の顔100万個」の見出しの当時の新聞記事を見つけた。”太陽の顔”は何と100万個も作られていた。100万個は3種合わせての数字と思われる。3種を均等割りしても一種類33.3万個となる。上写真の3個セットの他、白と黒の2個セットも販売された様だ。

記事によれば開幕日の3月15日に合わせ万博会場と全国有名デパートで販売される。とある。直径30センチの大きなタイプは「黒い太陽」のみ3万個生産されたそうだ。

記事通りだとすれば100万個の”太陽の顔”と3万個の”黒い太陽”は開幕前に完成していた事になる。てっきり開幕後増加する入場者数に合わせ、毎日フル回転で生産されたのかと思っていた。只、この数を生産するには毎日フル回転と言う事に変わりないだろう。
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「座る事を拒否する椅子」他 左「歩み」右「顔のプランター」、オリジナルの原型がある「むすめ」等々も信楽で生まれた。

太郎は普段使いが出来る量産化された多数の製品も生み出した。前回の「犬の植木鉢」の量産型も信楽産との話もある。信楽は一般向けに販売された太郎の陶芸品の産地とも言える。

「歩み」は製作年代により形が違う。藍色の水玉のものが1964~70年頃で白の水玉が1990年頃のものとされていて首の部分に違いが見られる。時々ヤフオクに出て30~50万位で取引されているが最初はいくら位だったのだろう?「顔のプランター」は1990頃のものだそうだ。

販売と言うからには宣伝された筈。その媒体は未だ見た事が無い。一般向けに販売された量産品も現在は希少なものとなり美術館で展示される程となっている。


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2015年の訪問では、生誕の地を特定する事が出来なかった。岡本敏子さんは太郎を「近代日本の歴史の中に巨大惑星の爆発のように突如出現して消えた”岡本太郎と言う大事件”」と称した。

代表作、太陽の塔の顔の1つが製作されたこの地はまさに”事件現場”とも言える。翌年、再アタックしてみたが、どうも教えてくれた場所はこの付近では無いのではないか?情報は違うのでは無いか?と思えた。

確かにタイルを焼いた会社と似た名前の会社は付近にあった。最初に問合せしてくれた時、どちらかが言い間違いか聞き間違いをしたのか?となれば地図からこの場所を指してもおかしくない。でも学芸員の方の教えてくれたのもこの付近。どう言う事なのだろう?又別の関係者の方からは「あそこは、もう無い」との証言も得た。「もう、無い」の意味が何を指していたのか解らなかったが地面が消えてしまう訳も無いし...”事件現場”の謎は深まる。


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タイルは顔の部位により丸みを帯びる様に焼成されている。太陽の塔に貼られている赤の稲妻、緑のコロナと言われているイタリア産モザイクタイルは1994~95年の大改修で張り替えられたが”黒い太陽”はどうだったのだろう?

このタイルは平たく見えて反った様に焼かれている。特に鼻から口にかけては単なる長方形のタイルが貼られている訳では無い。”黒い太陽”を構成している各タイルは一品物の可能性がある。落下した時のスペアと言っても、もう1つ分の顔を用意しておかなければ対応出来ないのでは無いだろうか?

貼り替え後のモザイクタイルは塔のふもとにカケラが落ちていた事もあったが”黒い太陽”はシッカリと貼られている様だ。もし貼り替えられたとしたら旧タイルは保管されており、以前オリジナルパーツを集めて開催された”黄金の顔”展の様に”黒い太陽展”が開催されてもおかしくない。

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資料によれば1969年10月11日、製造会社のグランドで完成発表が行われた。ダンプ30台分の砂を運び仮組みしたそうだ。直径約8メートルの”黒い太陽”は横27センチ縦10センチ厚さ17ミリ、約3000枚のタイルで組み上げられた。(この大きさは諸説ある)

素材にタイルを使用した事は常滑から始まったタイルや陶板を用いての作品作りあっての事だと思われる。

太郎は完成した”黒い太陽”の口にビールを注いだ。背景に小高い丘が写っているが、この敷地が相当広い事が解る。誕生の地をピンポイントで推測出来るかも知れない数少ないヒントだが、これだけでは解らない。





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2回目のアタック。信楽は”縁起物”タヌキの置物で有名だ。駅では沢山のタヌキが出迎えてくれ、駅前には巨大なタヌキが鎮座し、通りにはタヌキの置物が沢山置いてある店が何軒も並ぶ。「そんなに売れるものなのか?」観光客はまばらだ。「岡本太郎のデッドストックなど置いてないだろうか?」適当に数軒の店に入ってみるも見当たらなかった。

デッドストックの様に無数に並んでいるタヌキ達。この中に、あの場所を知っているタヌキはいないだろうか?

「こっち、こっち」手招きしてくれるタヌキはいないだろうか?化されても良いから連れて行ってくれないかなぁ?なんて妄想をしていた。





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出発前に、アタリを付けておいた場所に向かってみる。そこは「此処じゃないのか?」と想像させる風景が広がっていた。

「此処が事件現場 黒い太陽生誕の地」じゃないのか?って場所を見つけた。此処であって欲しいと思うも確証が無かった。

それ以上の事は一般人の私には調べる事が出来いのだ。モヤモヤ感が残ったままの帰り道、来た時は買うつもりが無かったタヌキを買った。



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その日は、大阪に移動し翌日、EXPO70パビリオンのイベントへ。展示資料を見ていていると「あっ!これは!」衝撃的な瞬間だった。「この建物....昨日の信楽にあった!」

展示資料の中にあったこの写真。「万博太陽の顔披露会場」の表示がされた建物は昨日のあの場所にあったのだ。

この建物をじっくりと見ていなかったのに何故、この写真を見た時「あの建物だ!」って感じたのか解らない。気にしていなかった建物の玄関と資料の写真が記憶の中で合致したのだった。何と言う奇跡。タヌキに化かされているかの出来事。買ったばかりのタヌキの御利益か?


急いで写真を見返してみる...「あった!」此処だけ重点的に写したものは見つからなかったが、建物の隅が少しだけ写った写真を見つけた。何と言う事だ。アタリを付けた場所は大当たりの可能性が出てきた。この写真に遭遇しなければモヤモヤが晴れる事は無かっただろう。タヌキのお陰だ。

直ぐに信楽迄戻り確認したかったが時間が無かった。別のモヤモヤ感が残ったまま次の機会を待つことにした。





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「もう一度、行かねばなるまい。」当時披露会場となった建物を確かめに...何とか同じ構図の写真を撮って来なければ...と2018年夏3回目の信楽。

万博開催準備の写真に当時「万博太陽の顔披露会場」と掲げられた案内。この場所の付近で”黒い太陽”の仮組みが行われ上の写真が撮影された筈なのだ。此処が歴史の舞台。”大事件現場”と思いたい。横にある空地がその場所と考えるのが自然だ。

日本の至宝「太陽の塔」の背面を司る顔の完成披露会場となった建物が現存しているとは!驚いた。そしてこの建物が”ただの地面”となっている探し求めた地点を示す印となっていたのだ。

この時、入口脇に貼られていた案内が残っている可能性もある。掛け軸になっているかも知れない。「何でも鑑定団」で紫の布が引かれ、この掛け軸が披露された絵とその後始まるナレーションを妄想した。













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前回は此処がその場所なのかなぁ?と言う目で見たが、3回目はかなりの確率で此処だと言う目で見ている。「黒い太陽」の大きさは直径約8m。この敷地の中ではほんの僅かな大きさでしかない。ピンポイントで確定する事は出来ない。只この写真の構図の何処かに「黒い太陽」は並べられたのだ。(と思いたい。)

目を閉じ、その光景を想像し妄想し瞑想してみる。信楽タヌキに化けてもらった。脳内のバーチャルな空間に”黒い太陽”がしっかりと浮かんできた。







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”黒い太陽”の全体写真は高い位置から撮影されていた。それは何処なのかと思っていたらネットで見つけたこの写真。後方に高見台の様なものが見える。そうかこの場所から撮影したのかと思った。製作中も高い場所で確認しながらの作業になったのだろう。

しかし太郎の下に見えるのは左目と思われる。高見台の様な場所から撮影すると反対の構図となってしまう。タイルを並べる時も然り。写真に写るものは関係ない構造物なのか?事件現場には、そんな構図が撮れそうなフェンスが残っていた。その高さからならあの構図が撮れそうな気がした。







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わざわざ現地に持って行った「黒い太陽」を跡地に置いた。計算が合っていれば本物の約3053分1の大きさだ。3053個並べるとその大きさが体感出来る。当時製作された100万個の”太陽の顔”平たく並べると、どれ位の広さとなったか?何とお祭り広場大屋根の面積に近い。

3053個のデッドストックはあったかも知れない。この場所がもしあの場所であったならで原寸大の「黒い太陽」を再現したらどうなるか?タヌキにお願いしても良い。信楽に並ぶタヌキがある日3000個のタイルとなり「黒い太陽」を完成させるのだ。絵本になりそうな話だ。

色々な動物の立体彫刻を製作した岡本太郎。信楽タヌキを見ていただろうが、いたずらでもタヌキを作らなかったのだろうか?太郎なら、どんなタヌキを作ったのだろう?見てみたかった。




# by banpakutantei | 2021-09-20 00:51 | 万国博 岡本太郎 | Comments(0)

岡本太朗と常滑~2犬の植木鉢の謎

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岡本太郎と常滑その2。太郎作品の中でも人気の「犬の植木鉢」。今年発売されたポリストーン製ミニチュア第二弾の箱には「岡本太郎記念館の庭で人気を独り占めしているのが”犬の植木鉢”。とりわけ女性の人気が高く、これを見つけると一様にに「かわいぃぃ」と歓声をあげながら写真を撮る。

太郎自身は「この動物は猫でも犬でもない四つ足である。庭に猛獣をうろうろさせた。しかし、どうも私が作る猛獣はかわいくなって仕方ない。我が家を訪れる客は私にそっくりだとからかう。」と書かれている。

60年以上前の作品だが、謎多き作品だ。今の処、太郎の文献やネットを見ても明確に解説されているものに、遭遇出来ていない。



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関係者には謎で無いかも知れないが文献等で調べる事しか出来ない一般人の私にとっては多くの謎がある。例えば一体幾つあって、どれが太郎が手でこねた”手ごね”。つまりオリジナルの植木鉢なのだろうか?と言う謎。

1954年。初期のもの3体が常滑の伊奈製陶(現リクシル)で焼かれたものだそうだ。これは前回書いた「顔」の製作2年後と言う事になる。常滑産の3体が”手ごね”犬の植木鉢と言う事で2体が岡本太郎記念館、1体が岡本太郎美術館にあるとされている。

上2体が太郎記念館、3体目が太郎美術館で撮影したもの。この3体が常滑産”手ごね”の「犬の植木鉢」と言う事なのか?(以後 ”犬植え”と略す)



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常滑産以降、型取りをした量産型も存在しているらしく、これが”手ごね”と言う確信は無いが、これが”手ごね”の犬植えと言う事にしないと、収拾が付かない。

只、上の記念館庭にあるものは国宝級の初期のものを此処に置くかなぁ?上から二番目は少し綺麗かなぁ?と言う疑問はある。

量産型がある..と言う事は「犬の植木鉢」は一般に販売されたのだろうか?ある資料によればオリジナルは約80センチ。それを原型とした量産型は焼成時に収縮し約50センチ位になると言う。つまりオリジナルか量産型かは大きさで解る事になるのだが。

(以降1番上を記念館1号”くちポカーン 縦じま”タイプ2番目を記念館2号”ニヤリ 、左を美術館3号”顔まだら”タイプとする。)


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量産型”犬植え”が何時頃、販売されたのか?の疑問には1963年頃では無いかとの説がある。果たして値段はいくらだったのか?どれ位作られどれ位売れたのだろうか?

以前美術館の学芸員の方に座る事を拒否する椅子について質問した際、ダイエーで何体か発見されたものがあると言う事を聞いた...つまり犬植えは一般販売された...ダイエーでも販売された...後に売れ残りのデッドストックが数体発見された。デッドストックは何時発見されそれらはどうなったのだろうか?肝心な事を聞きそびれた。

広告など販売資料もある筈だが未だ見た事は無い。それがあれば、価格や販売経路などが解ると思うのだが。



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これは1955年4月3日。自宅(現記念館)で北大子魯山人や丹下健三が招かれて行われた「ピカソを超える茶会」(実験茶会とも呼ばれ形にとらわれない自由な発想の茶会だったそうだ。)での写真。太郎が座っているのは”顔の椅子”か?

ここにも”犬植え”が登場している。時期的にも常滑産の手ごねのものか?。口の開き方と顔にスジが入っている記念館1号に似ている。只、白黒で解り難いが胴体が白っぽく見える。







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アトリエでくつろぐ太郎。(土門兼撮影)これも1955年だそうだ。ここには犬植えが2匹写っている。1955年はオリジナルが作られた翌年。これが”手ごね”の犬植えか?

左写真を見てみると...これは?記念館1.2号、美術館3号と表情が違う。角度の違いでそう見えるのだろうか?左のものは耳が短い様にも見えるが表情は記念館庭にあるものと似てる。右目が若干三角っぽく見えるけど耳が短く見えるのが写真のせいだとしたら記念館庭のものかなぁ?

右は?表情は記念館2号に似ているんだけど口の中が白くない。結構ニッコリ笑っている。どうなんだろう?幻のニッコリ版。かなり、かわいい。



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左が今年販売されたポリストーン製ミニチュア。記念館2号がモデルか?









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パッケージに写る犬植え。左上のキャプションには1955年。岡本太郎美術館とある。パッケージは庭で撮影されている様だが、やはり同所で撮影した記念館2号か?












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これは「岡本太郎 立体に挑む」展図録にある犬植え。岡本太郎美術館蔵。1963年と記されている。

岡本太郎記念館の記念館2号とそっくりだ。1963年量産型製作説と合致する。つまり記念館2号が原型となった量産型が左写真のものなのか?只そうなると上から2番目の記念館2号が常滑産”手ごね”の現物との確証が持てない部分でもある。

図録によると大きさは600×800×200 とあるので焼成時の収縮想定の寸法には近く無い。撮影した記念館の寸法は解らない。手の平ででも測っておけばよかった。




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これは1964年1月の岡本太郎展(西武百貨店)での図録に出ていた犬植え。1963年とある。記念館1号と同タイプだ。大きさは100×100と記されている。1963年と書かれているには、何処かにそれを印すものがあるって事なのだろう。


上写真と共にポリストーン製ミニチュアとなった記念館1号の1963年版が存在する事が解る。







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これは丹下健三さんが特集された本に載っていたもの。娘さんの誕生日に生け捕って来たものと書いてあった。

丹下さんの回想では最初に興味を示したのは犬だ。この彫刻に興味を示したのか沢山の犬がやって来て吠えるので近所から苦情が来た。その次に近所の子供たちのアイドルとなり母親を案内してくる子もいた。ところが「これは一体なんだね」と興味を示さない。犬からはじまって目下子供の段階だがいずれは大人が興味を示す時が来るだろう。と予言していて予言は現実となっている。

耳が折れているが最初からなのだろうか?こちらの胴体は白っぽく見える。これは未だ丹下さん関連の場所にあるのかなぁ?と思っていたら2017年「岡本太郎×建築展」の図録に見つけた。耳はやはりひとつだ。

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実際この展覧会に行ったが、この頃は未だ犬植えについて何の疑問も持っていなかったので只漠然と見ていただけだと思う。

いっしょに写っている美術館1号と比べると明らかに大きさが違う。これが型から起こした焼成時の収縮説の裏付けなのか新たに手でこねたものなのか解らない。

個人蔵...つまり丹下さんの娘さん所有なので、なかなか見る機会は無いと思っていたが2021年近現代建築資料館での丹下展で展示されていた。...まさか丹下展で展示されるとは!大きさは510×510×320とあった。

左手前の作品青が丹下さんが設計した旧都庁の壁画となりそのカケラが一部現存している。って事を本家小田原建築探偵の製作途中で止まったまま10年以上が経過してしまった。



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型から起こしたものならば耳は折れてしまったと言う事なのか?と調べていたら何と!丹下健三自邸(現存せず)に関する論文中に犬植えの写真を見つけた。

耳はふたつ付いていた。そして1954年から丹下亭南庭に据えられたと記載されていた。つまり製作されたとする1954年に、この場所にあった訳だ。つまり製作後すぐに丹下さんの家にやって来た極初期の犬植えと言う事だ。

ここには娘さんの回想も書かれていた。通りがかりの大人が彫刻を訝しげに眺めたのに対し、散歩中の犬がお辞儀をして通るため、丹下は「最近の犬は現代美術を理解している」と評したと記されている。



 
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こちらは滋賀県立信楽陶芸の森にある犬植え。元々太陽の塔背面の黒い太陽の製作時助手をしていた方の個人蔵だったものだったが、どういった経緯で貰ったものかは覚えていないそうだ。

後ろにはTARO54と印されている。大きさは540×390×140。54とは”手ごね”の犬植えが製作された年だが東京で焼かれた可能性が高いのだそうだ。丹下さんの犬植えと大きさが近いのか?
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ポリストーン製第一弾の箱に写る太郎と犬植え。太郎さんがヒゲを生やしているのと髪型から1955年撮影の写真に近いかなぁ?

こちらの胴体も白っぽく見える光の加減かなぁ?大きさも小さいタイプに感じる。うーん。解らない。他の背景とかから実際の胴体の色が推定出来そうだ。









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こちらも太郎さんと記念館1号タイプ。太朗デザインの浴衣を着てサイコロ椅子に座っている。1959年頃の撮影の様だ。

長々と、犬植えの謎を書いてきたが結論を言えば...一般人の私には解らないって事。良い線まで来てるかも知れないけど...犬植えは1954年の”手ごね”版3体と”型から起こした”1963年版があるんじゃないか?って事。

ICチップでも埋め込んでおかないと将来的に関係者でも解らなくなったりして。あと幻のニッコリ版があるのかなぁって事。






# by banpakutantei | 2021-08-29 14:42 | 万国博 岡本太郎 | Comments(0)

岡本太郎と常滑。

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常滑。...第二弾。岡本太郎とやきもの。岡本太郎と常滑。太陽の塔背面の過去の太陽のタイル、坐る事を拒否する椅子、歩み(花瓶)、顔のプランター、むすめなどの(量産型)の作品で語られる岡本太郎と信楽の関わりより以前...それは愛知県常滑、伊奈製陶(現LIXIL)のタイルとの関わりだった。

太朗は幾つものモザイクタイル、クラッシュタイル、陶板を使用した作品を製作しているがその初期...文献によれば青山以前、世田谷上野毛の自宅浴室を作る際に関わった伊奈製陶から1947年から発売された77色の1センチ角のモザイクタイルで太郎の絵を再現する事を提案され「群像」を製作依頼した事からその可能性を見出したとされる。

一点ものの絵画を工業製品であるモザイクタイルで製作すれば量産や展示環境に余り左右されない大型作品が出来ると考えた様だ。


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その後「太陽の神話」~「創生」~「ダンス」をモザイクタイルで製作するが、その現場となったのが常滑の伊奈製陶だった。太郎が立体作品へ向かう初期の段階で関わったのが常滑だったのだ。

「太陽の神話」と「ダンス」は現存している。写真左「太陽の神話」は以前岡本太郎美術館で展示されていた時のもの。通常は東京駅隣のビル内大和証券にあるが残念ながら撮影禁止となっている。

この作品の為だけでは無いだろうが真正面に警備員が立っている。博物館などでの監視では無く警備レベル。至近距離まで近づく事が出来るが、太郎作品の中で多分一番厳戒態勢で展示されている。




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現在、展示してあるビルは極めて近年の建築だから、この作品も大和証券所有だとしても以前は別の場所にあったのだろう。旧社屋か?ここには「踊り」と言う陶板壁画(現存せず)もあったと言う。最初は読売アンデパンダン展に出品されたものだ。どんな経緯で現在に至るか知りたい処だが一般人の私には調査出来ない。

写真左は「ダンス」。大阪高島屋レストラン街で見る事が出来る。元々1952年に製作され高島屋大食堂に1969年頃まで飾られるも約40年、倉庫に眠ったままの作品を修復し2011年から展示されている。

この修復の場となったのも常滑。この地にあるINAXライブミュージアムにて修復作業が行われた際、黄色の上に赤の塗料が塗られたタイルが確認された。ラインナップの赤と太郎の求める赤が違い、タイルの上に赤の塗料を上塗りしたと言う噂話は元々あったそうだが、修復作業でそれが事実だった事が確認された。



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作品全体を見れば赤はこの部分だけだ。太郎が大好きだった赤。赤や黄色は、その色自身では下地を隠せない極めて隠蔽(いんぺい)力の無い色だ。塗装では必ず下塗りが必要で再現出来る色調は下塗り、中塗りの色に左右される。

下塗り中塗りには一般的に白やグレーが用いられる事が多いが、その違いだけでも再現される赤は違ってくる。赤の下に使用する色の違いだけで様々な赤が再現出来るとも言える。

その特徴を利用して独特の色調を出す手法は自動車のボディーカラーでも取られている。近年ではスパッタリングとも呼ばれ赤クリアーの下にメタリックが塗装されていたりする。


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これが思った様な赤が出せないと塗料で塗った部位。剥げた箇所をそのまま残す工法が取られた。修復も製作当時に比べ「どこまで戻すか」等、相当深い話となってくる。

古い仏像だって元々総金箔や極彩色だったりするし欠損した部位を復元しているものも多い。古すぎて写真も無い時代のものを作者の意図を想像しながら行う精密な作業だ。

太郎作品の修復に関してのスタンスは最近放映された番組によると製作当時に戻すと言う事だそうだ。これは岡本敏子さんの希望だそうだ。

下地となるタイルの色は白でも良かった筈だが黄色の上に塗ってある。求めた赤がラインナップに無かった説ではあるが、求めた赤は更に黄色下地上でしか再現出来なかった色調、じーっと見ていると赤の下にある黄が発色している様なフェラーリの様な赤だったのだろう。


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この作品以前の写真左「群像」写真上2番目「太陽の神話」の赤はどうだったのだろうか?以前だから太郎の求める赤のタイルは無かった筈だ。「太陽の神話」を見てみれば何と太郎が求めていたらしい赤が無い!

以前岡本太郎記念館で展示された「群像」は?これは伊奈製陶が太郎の原画を元に製作したものだそうだ。こちらは若干の赤がある。こちらの赤は元々のラインナップにあったもの?伊奈で製作されたものに太郎が赤に手を加えたのか?





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岡本太郎と常滑。太郎初の立体作品「顔」1952年作。3体製作され多磨霊園にある父一平の墓石にもなっている「顔」こそ太郎と常滑すなわち常滑焼とのつながりだ。一平の墓碑の隣には母かの子の墓碑も並んでいる。太郎自らが手でこねている写真も残っている。

現存しないモザイクタイル画「創生」の製作時、平行して作ったそうだ。岡本敏子著書によれば焼き上がりで割れてしまう可能性があった為、3体作られ結果的に全部割れずに完成したと言う事だ。

1体が一平の7回忌に墓石として設置され1体が伊奈の社長に送られ、1体は岡本太郎美術館蔵と記されている。1体は常滑にあると言う事になる。又INAXライブミュージアムには「顔」のマケット(小さな試作)が収蔵されている。



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1954年一平の7回忌の際、墓碑となった際の側面の穴に「これが親孝行のしおさめだ。」と線香がたむけられモクモクと煙があがっている写真が雑誌に載っていた。側面の穴全部に線香が一束ずつ立てられて煙があがっているのだ。

「何だこれは?」の墓碑版だ。元は花器として製作された「顔」を何故墓碑にしたのかは私が持っている資料からはハッキリしない。




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「顔」は反対側にもうひとつの「顔」を持っている。太郎がこちら側を表と設置したと言う事はこちら側が表面なのだろう。かわいらしい作品だが夜見ると怖いだろう。「墓碑のうしろに顔があってもいいじゃないか」と墓碑のうしろにも顔がある。

裏面の顔の鼻の部分のギザギザはどんな意味なのだろう?以前は、それ程好きな作品ではなかったのだが最近欲しいと思う位、結構気に入っている作品だ。







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そして太郎の墓。「若い夢」。「あれはまさに岡本太郎でしょ」と岡本敏子さんが選んだと言う。現在は敏子さんも一緒に眠っている。

「午後の日」とも名付けられた作品含めいくつか存在している太郎作品の中でも人気の高いものだ。太郎の墓に関して「午後の日」と表記されているものが多いが2019刊「岡本太郎記念館の20年」(及び記念館のサイト)にはハッキリと「若い夢」と記されているので「若い夢」なのだろう。

見分け方はある様だが見分けにくい。姫路には「若い泉」と言うソックリな作品もある。元々この作品名は太郎が付けたものでは無く敏子さんが付けたそうだ。きっと敏子さんにしか解らないのかも。





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太朗が眠る多磨霊園には日本万国博覧会開催に尽力した石坂泰三氏も眠る。石坂家の墓の横には泰三氏の功績を記した銘板がはめ込まれた石碑が建っている。

左列が泰三氏の年表で右列に勲章を貰った履歴が記されている。大阪万博閉幕5年後の1975年に逝去されている。享年88歳。80を越えての万国博覧会会長と言う人生最後の大仕事を担った。万博記念公園駅を降りた処には石坂さんの銅像が建っている。

さぞや立派な戒名が付いておられる筈だが...しまった!墓石横を見てくるのを忘れてしまった。ネットで調べても今の処解らない。石坂さんの功績は万博だけでは無いが万とか博が入っていたら凄いなぁ。



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そう言えば太郎の墓にも太郎の戒名が見当たらなかった。岡本家全員見当たらなかった。生前の名前が刻んであるだけだ。「死は祭りだ。」と葬式を嫌っていた太郎の葬儀は行われず、送る会が営まれた位だから戒名も無いのかも知れない。

そもそも太郎に戒名を付ける事が出来る人なんていないだろう。あるとすれば敏子さんが選んだ文字を含んだものになっただろう。

左は以前もブログに出した太郎作品集に書かれた太郎のサイン。1968年当時の金額で¥9500、限定500部発行されたものでシリアルナンバーも入っている内の一冊。只の贈呈本では無く太郎が石坂さんに贈った貴重な逸品。大阪万博における重要人物から重要人物への極めて貴重なサイン。しかも漢字とローマ字の2パターン書いてある。

指紋って、どの位残っているものだろう?と調べてみれば付着している物質と周辺の保存環境によって大きく変わるとの事。ガラス、プラスチック、金属などは2.3カ月程で消えてしまうそうだ。雨に濡れてもすぐに消えてしまうそうだ。逆に紙類は、何十年でも検出出来る事があるそうだ。

きっとこの本には太郎と石坂さんの指紋が未だ残っているかも知れない。但しその上には古書店で購入したので私含め他の人の指紋も沢山残っている。

岡本太郎と常滑...まだ続く。





# by banpakutantei | 2021-06-27 17:00 | 万国博 岡本太郎 | Comments(0)