小田原万博探偵ブログ
2023-12-08T20:35:29+09:00
banpakutantei
小田原城ではなく何故か 熱海城です。
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岡本太郎と信楽6~坐ることを拒否する椅子4
http://gtmgtm.exblog.jp/29749829/
2023-11-21T18:31:00+09:00
2023-12-08T20:35:29+09:00
2023-11-21T18:31:24+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
更新期間が空いてしまっても、しつこく坐ることを拒否する椅子を深く深ぁく掘り下げ1964年の岡本太郎展で初めて公開された”別格の拒否椅子”を探す調査は続く。
その間放映されたドラマVIVANTでは”別班”と言う単語が用いられ大人気となった。それよりも、もっと早く”別格”を使用していたのでドラマにあやかった訳ではないが今回からこの椅子を”別脚”と表現したい。
前回、岡本太郎美術館にて”特別枠”で囲われ展示された初期型の座ることを拒否する椅子。その殆どは1964年の岡本太郎展で初めて発表された時の写真の中に見つける事が出来ない、或いは特定出来なかった。
東京から全国数か所を巡った個展終了後、展示された”別脚”は当時のアトリエ、岡本太郎記念館に戻ったと考えるのが自然で、一部はその後も頻繁に開催された個展に出展されたと考えられる。現在の記念館の椅子に”別脚”を見つける事は出来るのか?”別脚”が存在する可能性が最も高いのが、この記念館だ。アトリエ当時の写真を見ると、貴重な作品のマケットやら完成品が所せましと写っている。
左は拒否椅子公開から3年後、1967年5月の週刊誌の広告に写る現在の記念館庭での岡本太郎と作品群たち。広告掲載の1~2年前に完成した「歓喜の鐘」や「若い時計台」のマケットが確認出来る。
そこには拒否椅子も写り込んでいる。そしてこの2脚は下写真の中に確認出来、太郎展で展示された”別脚”の可能性が極めて高い。
同型同色の椅子が幾つか製作されたかも知れないし、1脚しか製作されなかったかも知れないのだ。もし1脚だけだったら完全にこの椅子は”別脚”と言う事になる。
今回、比較の為、何度も同じ写真を載せているが、これが私の太郎本の中で見つけた唯一のカラー写真。色々と太郎本を所有しているが不思議とこれしか見つけられない。岡本太郎美術館の特別枠内にあった拒否椅子は、この中に見つける事は出来なかった。
他の当時の会場風景は白黒で図録に小さく数枚確認出来るのみだ。
太郎のアトリエに雑然と置かれた拒否椅子たち。画像で見える以上の数がある事が想像できる。写真は2023年岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎とスポーツ」展で流れていた動画を撮影したもの。何時頃のものだろう?後の人々が何をしているかと言うと太郎にスキー板を調整しているところ。
右下の赤い拒否椅子は同型だと思う。左の白の”怖笑。赤の後ろの藍色のギョロ。他にも”別脚”の雰囲気がプンプンしてくるものが幾つかある。これらを”別脚”と言わずして何を”別脚”と言えば良いのか?強引ではあるがそう思いたい。
1964年岡本太郎展が一巡して拒否椅子が戻って来るのは、太郎のアトリエ。どこかに寄贈とかしていなければ、やはりその存在は、この記念館にあるのではないだろうか?
但し全てが展示されている訳では無い。記念館にバックヤードなのあるのだろうか?さもなければ、何処かの倉庫に保管されているのではないか?果たして現在の記念館に”別脚”を見つける事が出来るのだろうか?
”別脚”の中でも”別脚の中の別脚”...特別なる別脚....即ち”特別脚”。は太郎展のパンフに写る、赤のギョロだろう。坐る事を拒否する椅子のメインキャラクターと言えば”赤ギョロ”と言う事で賛成多数で良いだろう。と言いつつ、この個体、私の持つ唯一の個展でのカラー写真内に確認する事が出来ない。
又、この赤ギョロ、参考にさせていただいている書籍「岡本太郎信楽へ」内では、著者がこの赤色を見て疑問を持ち、前述の当時の関係者である佐藤さんに問い合わせた処、「展示会に間に合わす為 上絵の赤色を使った」とのやり取りが記述されている。個展の準備当時、信楽では太郎が狙った血の様な赤の釉薬が完成されていなかった可能性もあるとの事だがパンフレット撮影用に間に合わす為とも取れる。
通常の釉薬は1100~1300℃で焼成されるのに対し上絵とは絵付け用の材料で800~900℃と釉薬よりも低い温度で焼成されるのだと言う。確かに朱色に近く、血の様な赤では無い。
2023年4月の記念館庭にある拒否椅子を見てみよう。配置や展示されている椅子の内訳や配置は時々、変化したりする。この時も今まであった拒否椅子が消えてしまっていたので、この時の展示品で検証してみたい。
記念館にはこの時。屋外に約12脚の拒否椅子が展示されていた。流石に初期型の比率が高い。前回の岡本太郎美術館では”特別枠”で囲う程の特別扱いだったが、此処では普通に置いてある。
沢山の作品が生み出されたこの地では、全ての特別が普通に展示してある。
先ずは上中央の赤ギョロ。形は旧型、色は赤。しかも血の様な太郎が狙った赤。前述の様に当時の写真中に確認出来ない。拒否椅子のメインと考えられる色形のものが展示されていなかったとは考えにくい。写真中の認出来ない数個に含まれていたのだろうか?それとも赤ギョロだけ別の場所に展示してあったのか?
2個上のパンフに写る赤ギョロとは、明らかに色味が違う。パンフの赤ギョロは撮影用なのだろうか?確かに狙った赤が出ていない拒否椅子を個展に出さないのではと思える。
とすればパンフの拒否椅子は撮影用なのか?赤が発色出来なくてもフォルムとしてはギョロをメインに据えたい意向があった為、仮の赤を塗って撮影したのだろうか?
カラーで写っている写真に全く写っていないものは丸印の4脚。この中に赤ギョロが含まれているとしてもパンフの赤と上の赤のどちらか1脚だろう。
色が確認出来ない4脚のフォルムをじーっと見てみる。右から2脚 は白黒とは言え赤っぽくは無い。では残る左から2脚のどちらかなのか?うーん。4脚共、ギョロのフォルムと違う様な...パンフと記念館にあるギョロ。どちらもフォルムが確認出来ないのだ。
まさか赤ギョロは展示されていなかった?そんな事は無いだろうが、それらしき椅子が写っていないのだ。
当時の写真は沢山残っているだろうから、それを見れば簡単に謎は解ける。一般人の私には、カラー写真一枚と白黒数枚から、ああでもない、こうでもないと推測する事しか出来ない。
椅子の下側面にはTAROの数種類のサインがが確認出来る。後期のものは凸状にサインが型に付いており成型された椅子には彫られた様に反映される。胴体と顔の型は分割となっており胴体の型の数だけサインの違いとなって表れる筈だが入れるサインにも型があったのかも知れない。
初期の椅子も数を製作する為、同様の手法が用いられたと思われる。
(左)記念館で撮影した椅子と(右)パンフレットに写るサイン。パンフレットのものが正面から撮影されていないが何となく記念館のものが深さが浅い様に見える。特にT。
疑問としては拒否椅子のメインフォルム&メインカラーである赤ギョロの初期型で個展のメインに据え置いた”特別脚”を、こんな形で展示しているのか?って事だ。
続いて手前、以前名付けさせてもらった「パーでんねん。」青の色が若干違う様にも見えるけど...これ..であって欲しい。
赤色の これも同型が写真に写る。色が少し褪せた感があるが、これであって欲しい。
緑の”縄文”。これも初期型だがカラー写真中には確認出来ないが白黒の中の色とフォルムがあまり解らない中にある可能性もある。
今回紹介した写真中実に7脚もの、もしかして”別脚?”が確認出来た。
前回、私の所有するタイプのものが写真にあり「うわっ!まさか!」となったが傷の有り無しで違うものと判明した。
”別脚”の拒否椅子である可能性は高いが”私規定”では岡本太郎展で展示されたものが”別脚”の拒否椅子と規定する。同脚があった場合、太郎展で展示された印でも付いていない限り特定する事は困難だ。
私の所有する拒否椅子は写真でも解る深い傷の有無が決め手となった。本来無い方が良い傷だが、あって欲しかった。オークションでの価値よりも拒否椅子初登場の場面にいた椅子に価値を見出したい。
そして、ここからの椅子。記念館庭には、写真の様に色が取れてしまった椅子が3脚ある。屋外展示の為、色が褪せてしまう事があるだろうが焼き物の釉薬がこの様になってしまうのだろうか?
側面を見てみると沢山の人が座った為、色が取れてしまったと言うよりも流れてしまった様に見える。記念館開館が1998年。今年で25年。開館時点で拒否椅子発表から35年経っているが最初から色の取れた椅子を展示したとは考えにくいので、この25年の間に取れてしまったのだろうと考えるのが自然か。
そしてこの元赤ギョロ。これも開館時は色が残っていた筈。上は素焼きの白が見えているが本体はどうも素焼きの色とも違う様に思える。目の白と黒は残っている。
もしかして、これがパンフに写る赤ギョロ?上絵を使って塗ったので屋外の展示で色が取れてしまった?
何度か登場させてもらっている当時の関係者、佐藤さんに写真を見てもらった。「うーん。あれとは違うだろう。当時失敗した椅子も沢山あった。ヒビが入ってしまったものや、ちゃんと色が出ないものもあった。当時のアトリエには、そんな椅子もあったり、太郎さんの知り合いにあげてしまったものあった。写真に写っているのは焼成に失敗したものが長年の屋外展示で色が無くなってしまったのではないだろうか?」と言う事だった。
坐ることを拒否する椅子をしつこく、しつこく...深く深ぁく掘り下げた結果、更に深い処から新たに出てきた赤ギョロの謎。
記念館庭の赤ギョロは”別脚”なのか?パンフに写る赤ギョロは撮影用だったのか?何故 赤ギョロが会場写真に確認出来ないのか?そして色落ちした元赤ギョロ。
佐藤さんは否定していたけど、記念館庭の元赤ギョロ。撮影用に低温の上絵で塗ったので時間の経過と共に色が取れてしまった。つまりこの拒否椅子が”別脚の中の別脚”...特別なる別脚...”特別脚”...と結び付けてしまいたい。物語としては凄くロマンチックではある。
坐ることを拒否する椅子を深く深かぁく掘り下げる調査は続く。
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岡本太郎と信楽5~坐る事を拒否する椅子 その3
http://gtmgtm.exblog.jp/29530315/
2023-03-25T17:06:00+09:00
2023-03-26T00:01:33+09:00
2023-03-25T17:06:41+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
前回の続き。岡本太郎美術館にて何のキャプションも付けられずにポールで隔離され展示された、まさに座ることを拒否する椅子の一群。書籍等で紹介される場合、殆ど全てが”座る事を拒否する椅子 1963年”の表記で統一されている。1963年は発表された年だ。この時の太郎の年齢は52歳。
これらについて深く深ぁく掘り下げた文献を今のところ見た事は無い。
キャプションが付けられていないとは言え自由に座ることを許可された椅子と一線を引いた形で展示されていると言う事は拒否椅子一群のなかでも特別である事を物語っている。まさに”特別枠”で囲われた拒否椅子。触れる事も拒否されていた。
この回の展示目録にもその辺りの表記も見当たらない。同様に座ることを拒否する椅子。1963年だ。
特別な拒否椅子。フォルムから初期の型で作られた椅子である事が解る。(ひとつ?が付くものがあるが..)只、これらが1964年岡本太郎展で最初に展示されたものかどうかは解らない。
座ることを拒否する椅子の初期と後期の違い。現在私が理解している範囲を大別すると1960年代の初期と1990年代の後期となる。双方共、信楽で作られたものだが窯元は違う会社だ。
写真左が初期、その下が後期1990年代となる。後期は顔から胴体へが、なで肩なのが解る。1990年代のものは割と解りやすいが岡本太郎記念館や美術館、その他の場所で撮影した拒否椅子の写真を見ていて、これは?というフォルムのものもある。
何せ一般人の私の所持する当時のカラー写真は一枚しか無いのだ。その中に同じ色形のものもあれば、見つけられないものもある。元々は太郎のアトリエ、現在の岡本太郎記念館にあったものだろう。
左が1990年代の拒否椅子。顔用の型と胴体の型の写真を載せているが、胴体部分の型は共用しているそうだ。従って底面付近にあるTAROのサインも同じものとなる。
初期の拒否椅子の胴体部分の型は共用されたのだろうか?その可能性は高いが初期のものと思われる拒否椅子のサインは今の処、2種類程確認出来ている。
左は座ることを拒否する椅子がデビューした1964年の岡本太郎展図録の中ページ見開き。既に太郎の多面体をイメージした写真が使用されている。
東京池袋の西武百貨店を皮切りに名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪、翌年静岡等、全国主要都市を巡回している。個展はこの年以外でも何度も開催されており、当時からかなりの集客力を持っていたと考えられる。
これだけ廻っているのだから拒否椅子の展示風景の写真も結構残っている筈。1964年の個展の展示室にタイムスリップしてみたいものだ。
現在では個展が開催された際、数えきれない位の太郎グッズが売店で販売されているが当時は、どんなものが並べられていたのだろうか?
個展では次の会場へ巡回する撤収時、各椅子、特に壁に取り付けられて展示されたものには番号等が何処かに記された筈だ。しかし、持った感じでは30キロ前後ある拒否椅子。これだけの数を取付けるパネルには、かなりの負荷が掛かる筈だし椅子は陶器でもある。どの様に取り付けたのだろう?
岡本太郎展で初めて展示された拒否椅子、つまり左写真に写っている椅子こそ”別格の拒否椅子”であると此処では定義する。別格の拒否椅子、同じ釜の拒否椅子、同じ型の拒否椅子、の存在が今の処考えられる。
個展終了後、多分アトリエに戻って来た椅子には何か目印がマークされたのだろうか?当時の関係者佐藤さんも最初に幾つ位作ったかのは思い出せないそうだ。別の関係者に聞こうともしたが皆亡くなってしまい解らないとの事。それはそうだ。何せそれは60年以上も前の事なのだ。
私の所有する拒否椅子。通称”ひとつ眼”。太郎展の展示写真に同型のものを見つけた時の驚きと言ったら...まさか初期中の初期...べっかく...?なのだろうか?。
有名な手のひらに書かれた”眼”。私の拒否椅子の眼はこの眼だ。このタイプは一色のものと眼の部分に色入れされたものがある。
写真を拡大してみると...嗚呼...残念!矢印部に入った傷と言うか線。私のものには、この線が入っていなかった。隣の椅子にもひび割れの様な傷が入っている。この時点での傷は、取り扱い上で出来たと言うよりも製作途中の焼成中に出来た可能性が高い。
元関係者の佐藤さんから伺った話では焼成中、ヒビが入ってしまったものもあったそうだ。こう言った焼き物では釜の中で割れてしまうものもあるので同じものを幾つか作るそうだ。
リアルオークションでは状態の良さが重視され欠点となるのだろうが、この傷こそが”別格”の印。傷の無い所有する私のものの方が美品となるのだろうが、写真に写る傷こそが太郎展で展示された実物の証拠。私の中では加点となる。
残念ながら私の拒否椅子は同じ釜の飯を食った同じ型の椅子だった。
2019年発行、岡本太郎美術館作品目録と言う書籍がある。実に約2000点もの太郎関連の作品、グッズが載っている。グッズ類に関しては、収集している人にとってはカタログ的なものでもある。ネクタイに至っては150種位あった事が解ったりして驚いた。
只、写真がオール白黒な点が非常に残念な処だ。そんな事もあり、それ程売れていないと思う。是非カラーで再販してくれないかなぁ。
目録から岡本太郎美術館が所持する拒否椅子の全貌が解るだろうか?と数えてみる。30脚あった。表記は全て1963年で同じだ。大きさも同じ表記。
これまで個と表記してきたが椅子なので脚が正しいか?ページに間隔が空いているので初期が13脚 後期が17脚 と言う内訳だった。
今回の展示品を見てみよう。初期中の初期”別格”はあるのだろうか?
これらは元々は太郎のアトリエ兼自宅、現在の岡本太郎記念館にあったものと思われる。太郎展で展示された後、アトリエ庭に置かれ個展が開かれる度、いくつかが出たり入ったりしたと推測するのだが...
左はおなじみのギョロ。目録には5脚出ている。展示写真を見てみると赤、瑠璃(ルリ)、瑠璃より少し薄い青の3脚確認出来る。果たして...
他も無理無理に命名しながら”別格”なのかどうか確認してみる。
左 座面は顔の筈なのだが、何なのかは解らない。「ぱぁぁーでんねん。」と命名してみた。これより少し薄い青の椅子が確認出来るが...右「怖笑」の緑...これは写真内には見当たらない。
左 「ひとつ眼」の緑 これは私所有のものと同型。 右 「縄文」同型は写っているが色が違う。両方共 写真内には見当たらない。
左 「鼻矢印」は見当たらない。殆ど平らで座ることを拒否している風でもない。
右 「怖笑」白 鼻に見える部分がかなり凹んでいるが元々の作風なのか焼成中に凹んだものなのかは解らないが同類がこれ程凹んでいない事から焼成中に凹んでしまった可能性が高い。同型同色が写真に確認出来るが、これ程凹んでいない。これも側面縦にテープが貼られたまま展示されていた。
前述の佐藤さんの話によれば、外観上の不具合品は幾つか出たそうだ。
左 「割れ眼」坐った時 お尻の割れ目にフィットしそうだから...これも写真内に見当たらず...
側面のヒビに雑にマスキングテープが貼られたものが、そのまま展示されていた。これは上の目録の写真にも、そのまま写っている。補強の為感はあまり感じない。テープが貼られたまま目録に写り、展示されている。テープを剝がしてはいけない理由があるのだろうか?
しかも前向きにだ。剥がさないにしても普通は後ろに向ける筈。こちらが正面と言う事なのか目録通りの方向に展示されていた。
改めて(若干トリミングしてあるが)私の持つ唯一のカラーの展示風景。ここから確認出来るのは33脚。下の白黒写真を見ると柱が確認出来る。多分柱を避けてこの角度からの撮影となったのだろう。
下写真で柱の陰で確認出来ないものは丸印を付けた4脚。つまり大部分の椅子が写っている訳だ。前回のブログでは約40と書いたが、37~38脚位が”別格”の拒否椅子と言える。
2021年 岡本太郎美術館で展示された「特別枠」内にあった10脚の坐ることを拒否した椅子たち。その殆どは公開時の写真33脚内に見つける事が出来なかった。柱の陰に隠れた4脚にその可能性はあるのか?
残念ながら”別格”の拒否椅子である可能性が低い展示品。と言いつつ貴重な初期型である事に変わりない。
これらは、①同時期に製作されたが展示スペースの関係で展示されなかったか選ばれなかった。それらには焼成中に割れてしまう事を考慮して製作したものも含んでいる? ②個展用以外の目的で余分に製作された?が少なくともこの時点では拒否椅子をプロダクトデザインとして販売する計画は無かったと思われる。
坐ることを拒否する椅子の謎 更に続く。
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岡本太郎と信楽4~坐ることを拒否する椅子~2
http://gtmgtm.exblog.jp/29489482/
2023-02-05T13:30:00+09:00
2023-03-19T15:53:52+09:00
2023-02-05T13:30:21+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
坐る事を拒否する椅子は1964年に開催された「岡本太郎展」に向けて信楽で1963年に製作された。現在2023年なので実に60年も前の作品となる。左は1968年刊行の作品集「岡本太郎」に写る1963年岡本太郎展での拒否椅子の写真だ。
色々な資料を見たが、これ以外のカラー写真を(一般人の私には)見つける事が出来なかった。初期の拒否椅子のデザインやカラーリングを確認出来る貴重な写真だ。下は2017年「岡本太郎×建築」展図録に写る拒否椅子展示の様子。白黒ではあるが別角度から写しており拒否椅子全体の展示がうかがえる。
太郎展での作品展示には先日亡くなられた磯崎新さんが関わっていた。会場を闇として太郎の作品を浮かび上がらせ、拒否椅子は一部が宙に浮かす手法が取られている。写真からは約33個の拒否椅子が確認出来る。
2021信楽での太郎展で当時の関係者だった佐藤信夫さんに、沢山の貴重なお話を聞かせていただいた。
一口に坐ることを拒否する椅子と言ってもフォルムが違うものがある。解る範囲では1963年製作のものと1990年代のものがあると言う事だ。拒否椅子も型から作られるものなので型が壊れなければ幾つでも作る事が可能だ。
現在、幾つかの場所で拒否椅子を見る事が出来るが、この時の拒否椅子こそ初期中の初期。坐ることを拒否する椅子のデビューとなる貴重なものだ。
写真から確認出来る33個+α。約40個の拒否椅子。この太郎展で公開された拒否椅子の、その後の行方は?又初期型の拒否椅子は何処で見ることが出来るのだろうか?
1963年型が初期とすれば1990年代型は後期となるが、顔のデザインが同じでも作られた型が違う為、胴から上面へのフォルムが違う。その約30年の間に中期とされる型が作られたどうかは解らないが、佐藤さんによれば記憶に無いとの事なので作られなかったのではないかと言う事で初期と後期として話を進める。
左は2021信楽での太郎展にて展示してあった写真。これが初期の拒否椅子の製作現場。白黒だが色が付いている様に見えるので、釉薬が塗られこれから焼成される前の状態なのだろうか?最終的な仕上げが行われている。奥に4体、左手前に特徴的な通称ギョロの一部が写る。
そして何と驚きの事実。前々回のブログ「信楽~黒い太陽生誕の地」にて、その生まれた場所を探していた際、最初この場所なのでは?とするも違っていた工場跡地。
佐藤さんに、この場所こそが坐ることを拒否椅子が実際に作られた場所だと教えていただいた。
約60年前、この場所で”初期の坐ることを拒否する椅子”が製作されたのだ。此処が”坐ることを拒否する椅子生誕の地”だったのだ。
内部には、拒否椅子製作の痕跡が何かしら残されていた可能性がある。その建物も現在では取り壊されてしまったそうだ。知っていれば、別角度からも撮っておけば良かった。今となっては貴重な1枚だ。
岡本太郎と信楽との関わりが詳しく書かれている書籍「岡本太郎 信楽へ」によれば1990年代前後から坐ることを拒否する椅子の製作が別の陶芸会社で再びはじまったと記述されている。つまり上写真の工場と別の場所で製作されたと言う事だ。
その際、初期の製作時に使用された型が破損していた為、新たな型が起された。その型から150点の拒否椅子が製作されたとある。この型の違いがフォルムの違いに表れている。90年代に100点程出荷し残りは2006年頃出荷されたとしている。写真はその時の様子。
この時のロットが1999年開館の岡本太郎美術館にあるものだ。1998年開館の記念館に送られたものもだろう。1988年開館、台風の浸水被害により昨年閉館が決定してしまった川崎市民ミュージアムにも10個以上あったと思う。
坐ることを拒否する椅子は一般販売されたのか?との疑問。これまで美術館、記念館の学芸員の方や太郎に詳しい何人かの人に同じ質問をしてみた。「販売されていた。」との答えが多い。しかし一体幾らで、どんなルートでとなると明確な回答が得られていない。
質問は初期型、後期型と分けていなかった点もあるが、回答もどちらのものと特定されていない。
左は2017年六本木にて開催された「生活のたのしみ」と言うイベントで先着順で特別販売された3個の拒否椅子。フォルムは後期のものに見える。金額は162万円にも関わらず、あっと言う間に売れてしまった。
その時のインタビューで記念館館長の平野さんは「太郎が元気だった頃は縁のあった方々にお分けしていたそうです。でも少なくとも、ここ20年は販売していません。数に限りがありますからね。今回特別なテーマを持ったイベントなので思い切って出すことにしました。とは言っても3脚ですがね。」と話している。
少なくともここ20年は販売していない。ここ20年は販売していないと言う事は20年前位前には販売していた。2017年の20年前の1997年には販売していた。と言う事だ。一口に販売と言っても公共施設へのものもある。私の疑問は私の様な一般人への販売でもある。信楽はあくまで産地である。販売者は別だろう。
162万円。ピッタリ160でも165でもない端数の2万円と言うのにリアリティを感じる。昔販売されていた時の価格に近いものなのかプレミアム感を加算しての金額なのか?インタビューの「思い切って出す」とは倉庫にあったもののうちから3脚出してきた感があり、もう少し眠っているものもある様に思える。
上と左は2016年のオークション誌に写る拒否椅子。これも後期のフォルムに見える。落札結果は162万円よりも低かった。
この時のオークションでは上下二枚の写真。合計7個の拒否椅子が出品された。同時期に、こんなに沢山の拒否椅子。
出処は同じなのか?実は落札価格の最も高額だったのは左写真上の通称”ひとつ眼”。命名...私。私所有のものと同じ顔のデザインだけど、こちらは色分けされている。
オークションに出されたと言う事は公共施設に置いてあるものでは無く個人所有のものなのか?個人所有としたら購入したと言うことなのか?
こちらは2021年のオークション。私が勝手に付けた通称”縄文”。上からの写真なのでフォルムが解りづらい。ネットオークションでの出品は見たことが無い(私は..)が、この様にリアルオークション市場には時々出て来る様だ。と言っても数年に一度あるか無いか程度だが。
その中に初期のものが、どれだけあるのか解らない。もし1964年の岡本太郎展で展示されたものだったら状態が悪くても別格扱いだと思うが歴史的基準よりも状態の良さが価格判断の基準とされている様だ。
ここ最近のオークションでは後期の赤色ギョロが200万超えで落札されていた。
こちらはデパートの即売会で販売された拒否椅子。200万円。通称ギョロに似ているがギョロでは無い。
前回、今回と信楽会場に展示してあった後期の拒否椅子のカラーリングと顔のデザイン。顔が16種類。カラーリングで分けると35種類となる。拒否椅子のリスト35種で150を割ってみれば約4.2個。つまり同一種類の約4~5個程度がこの時期に製作された事になる。人気のギョロの割合が多い可能性があるが平均すると1種類4~5個しか生産されていない。
2021信楽岡本太郎展での素焼き状態の拒否椅子の数(前回ブログ上から番目の写真)を数えてみると何と16種類。このリストの顔全部が展示された事になる。
フォルムによる違いもあるがこのリストに無い顔は初期の拒否椅子と考えて良いのだろうか?小さくて見にくいが右には配色が記してある。通称ギョロはA-1赤黒白 A-2ルリ黒白としてあるがオークション誌に出ていた上写真右下のギョロはオレンジだ。つまりこのリストには無い色と言うことになる。私もオレンジギョロは見た記憶が無い。レアなのか?
Pの顔はAのギョロの三つ目バージョンなのだろうか?目の角度が違うのと丸い穴がある。上デパートで販売されたものと同型だろう。一番上の写真。1963年の展示写真では、この絵と逆さまに取付され、目入れがされていないものが確認出来る。
1990年代のリストとは言え、初期のカラーリングを参考にしている筈だ。と言う事は製作する際、初期型のカラーリングリストがあったと推測されるし、新しい型を作る際、初期型の拒否椅子も幾つかあったのではないだろうか。
初期型と後期型の違い。それは上面顔の部分の平坦さ、初期は上面がほぼ平なのに対し90年代製作の後期は丸みがある処。
ちなみに私の所持する拒否椅子は平で初期型と推測される。
岡本太郎美術館には実際に坐ってお尻で実感出来る椅子が多数ある。坐られることを拒否していない椅子だ。
初期だ後期だなんて疑問を調べていた2021年。岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎写真曼荼羅」展にて、展示室一角に坐ることを許可された椅子に混じってポールで囲われた拒否椅子があった。
囲いの中にある拒否椅子は正に”座ることを拒否された椅子”でもある。”坐ること”、”触ること”を拒否した椅子達。このフォルム、おぉ...これは初期型の拒否椅子じゃないか!
これら貴重な拒否椅子たちが何のキャプションも付けられないまま展示してあった。
係員の方に聞いてみると「古いもので、多分初めて展示している」との事だった。キャプション無しでの展示の意図は?を聞きそびれた。
隔離された拒否椅子。この囲いこそが数ある拒否椅子の中でも別格扱いの証。坐ることを拒否椅子の謎...つづく。
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岡本太郎と信楽3~坐ることを拒否する椅子
http://gtmgtm.exblog.jp/29143536/
2022-05-11T18:36:00+09:00
2023-01-15T05:04:50+09:00
2022-04-04T01:56:41+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
昨年、幸運な事に”坐ることを拒否する椅子”通称、拒否椅子を友人から入手する事が出來た。1963年、52歳の時に制作、翌年の個展で発表された作品。発表から既に60年以上も経過するも未だ人気を博している。
ちょうど長い道の道中で道ばたのごつごつした木の根っこや石ころの角などに腰をおろす かたい肌ざわり あの気持ちよさである 抵抗してくる物質感のよろこび それに 椅子といっても ながめる時間のほうがはるかに豊かで幅ひろい だから それ自体が芸術でなければならない 赤・黄・青 とりどりの原色をつかって使う人が自由に配置できるように考えた 青い芝生の上で 見事にさえるだろう
(1964岡本太郎展図録より抜粋)
拒否椅子の意図する処は様々な解釈がされているが上が太郎が拒否椅子とは何ぞやと最初に語った言葉だ。
上面が顔になっていて、ゴツゴツしていてずっと坐っていると辛い椅子。とは言え私の手元にあるものは、割と座り易い。陶器なのでずっと座っているとお尻が痛くなってくるけど上面に突起物が無いので実際、座りにくくは無い。只、形状はどうであれ、そもそも顔の上に坐る事は躊躇するものだ。
拒否椅子について幾つかの疑問を持っていた。様々な書籍資料を読んでもみても、なかなかその疑問を解決する答えは書いていなかった。
プロダクトデザインでもある拒否椅子って、そもそも一般販売されたのだろうか?販売されたとしたら幾らだったのか?とか一体何個位作られたのか?全部で何種類あるのか?等々...。
今回で3回目となる2021岡本太郎と信楽展。2017年以来5年ぶりの開催となる。今回の展示の目玉となるのが”坐ること拒否する椅子”の素焼きと型の展示。
拒否椅子のキャプションには1963年と付くが、それは発表年であり現在見ることが出来る現物が全てが同じ時期に作られたものでは無い。私もずっと全ての拒否椅子を一括りにしていたが実は製作年代は1960年代~のものと1990年代~のものがある。
拒否椅子は量産が可能な工業製品と言う性格もあるので、型と許可さえあれば幾つでも作る事は出来る。
今回の展示のメインである拒否椅子の素焼き状態のものが16種。色付けされ本焼きされる前の状態の製作途中のものだ。実は数年前、信楽の某所でこれら素焼き状態の拒否椅子を見させていただいた事がある。何しろ驚いた。許可を得ていなかったのでブログで公開する事は出来なかったけど、まさか出展されてくるとは..。
今回、当時の製作に携わった方とお話させていただき拒否椅子の疑問、当時のエピソードを聞く機会に恵まれ”拒否椅子の作り方”も説明していただいた。
製作工程をおおまかに説明すると粘土を型に沿って貼り付け、その後 型を外して素焼き、本焼きの順で進められる。
素焼きとは型から出した作品を一旦800度位で焼き水分を飛ばす事を言う。この後 釉薬(ゆうやく)と呼ばれる上薬で色を付けた後、更に高温の1200度位で焼く。拒否椅子は2色3色のものもあるが、これは各色マスキングを施して色付けするのだそうだ。
これら博物館行きと言っても良い貴重な品々...信楽の宝、今回の展示が終了すれば又元の場所に帰っていくのだろうが是非とも陶芸の森資料館で常設展示して欲しいなぁ。
通称”ギョロ”。 このタイプの赤色が一番有名で人気があるのではないだろうか?拒否椅子と言えばこのタイプが紹介される事が多い。
”ギョロ”は色々な場所で見る機会があるけど、それ程、沢山ある訳でも無く、もしかしたら同じ個体が行ったり来たりしている可能性もある。
この椅子には通称があるが他の椅子は名無しだ。太郎が呼んでいた何かしらの愛称があると思われるが、それすら今となっては解らない。
上銘にリボンの様なメガネの様なものが付いているタイプ。これは拒否椅子の中でも座り難さは上位になるだろう。上の部分は別の型から取り出され素焼き前に合体される。
私的にはタートルと呼んでいる。何となくミュータント・タートルズに似ていると感じたからだ。
これが石膏で出来た拒否椅子の型。型にペースト状の陶土を流し込みしばらくしてから中の陶土を抜く。型と接地する部分な最終的に製品となる。陶器の中が空洞なのはこの時中身を抜くからだ。
これがあれば同じものを沢山作る事が出来る。こちらの方がマニア的には貴重かも知れない。
この型を作る為には、その元となる原型が必要だ。原型は粘土で作られるが、それこそがが真に太郎の手が加わったもの。原型こそが太郎作品と言うことになるが石膏で型取りされた後、掻き出されてしまい原型を留めない。焼きあがった製品原型よりも15パーセント程、収縮する為 型は大きめに作られるのだそうだ。
上面部と胴体部は別々に成型され素焼き前に合体される。その際つなぎ目は焼く前に丁寧に仕上げが行われる。
これらの型によって拒否椅子は量産が可能となった。量産の工法は確立されていたとは言え 只、型に流し込んで焼けば出来上がるものでは無く、各工程様々な技術無くしては作る事は困難で更に太郎作品としての出来栄えの基準も厳しく歩留まりは低かったそうだ。
近年の製作品では僅かなピンホールも厳しく検査されたそうだ。拒否椅子は太郎が作った造形と信楽の技術の調和により完成したものだ。
目指した日常使い 量産可能と言う言い方は、型を使って沢山の量を作ると言う意味もあるだろう。真の工業製品は一定の品質を保ちつつ沢山の数を歩留まり良く生産する事だ。
型の内側にあるTAROのサイン。凸に出ており完成品は彫った様な形となる。
銀座にある”若い時計台”の設置時の動画を見ていた時、興味深いシーンがあった。それは時計の顔の部分に太郎のサインを張り付ける際、4パーツに分かれた太郎のサインのプレート。太郎はそれぞれのパーツをササっと並べバランスを見て配置していた。
これが原型に太郎自身が刻んだものなのか、太郎のサインから起こされた型が押されたものなのかは解らない。
上の型から出来あがった赤ギョロと紺ギョロ。色は違うが同じ型から生まれてきた兄弟。太郎と信楽の関係が詳しく書かれた書籍「岡本太郎、信楽へ」を読むと、赤の釉薬こそが太郎と信楽を繋ぐきっかけとなった様だ。
4つ前のブログ「岡本太郎と常滑」にタイル画”ダンス”は太郎の求めた赤が出せず黄色タイルの上に赤が塗られたと書いた。その後制作された都庁の壁画”日の壁”なども太郎の思う赤が出せずにいたと言う。
太郎が好んだ血を思わせる激しい赤を再現出来る釉薬が信楽にはあったとされる。それは写真の90年代につくられた”赤ギョロ”の赤なのだろうか?血を思わせると言えば確かにそうだ。これが太郎の赤と証明出来る色見本でも残っていたら、かなり貴重だ。
こちらは初期型とされる拒否椅子。1963年作と言われ明らかに上のタイプとフォルムが違う。上の90年代に作られたものとの違いが解るだろうか?違いは上面部の丸みの部分だ。近年制作されたものの上面は丸みが強い。
つまり型が違うのだ。初めて展覧会用に制作された拒否椅子の型から作られたと思われる。私の所有する一番上写真の黄色タイプも上面が丸みを帯びていない。
上写真の”紺ギョロ”の隣は私所有のもの、私的には”眼”と呼んでいるものの色分けパターン。一番上写真と比べてやはりフォルムの違いが解る。
90年代のものは初期の型が破損して使えなかった為、新たに作られた型から制作されたものだ。拒否椅子の疑問.. 次回も続く。
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岡本太郎と信楽2 西伊豆のホテルにある陶板壁画。
http://gtmgtm.exblog.jp/28943765/
2021-10-31T23:59:00+09:00
2023-03-27T20:53:35+09:00
2021-10-31T23:59:06+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
なんと信楽で5年ぶりとなる岡本太郎展が開催されるとのニュース。「また信楽で、岡本太郎展開催されないかなぁ。まだ知りたい事沢山あるし。」と思っていた。何という巡り合わせ。
丁度、岡本太郎と信楽つながりで塩漬けになっていた写真を探してきて今回のブログを書いていた処だった。写真は静岡県伊豆半島、西伊豆の景勝地 堂ヶ島にある堂ヶ島温泉ホテルにある陶板壁画「風」。これも信楽産。
行ったのはは2015年。多分、現在も大きな変化は無いと思われる。作品はホテル玄関にある。宙を舞う人、駿河湾から吹く潮風をイメージしていると言われる。抽象的な岡本太郎にしか見えない景色。
ロビー内での作品の位置はこんな感じ。壁画の隣には売店が併設されている。
ホテル設計者との繋がりで、この壁画が製作されたそうで、信楽で製作し仮組されたものを堂ヶ島まで持ってきた。施工には太郎も立ち会ったそうだ。仮組時に付けた陶板の番号を忘れてしまい、信楽の製作時の助手の元へ電話が掛かって来て急いで駆け付けたと言うエピソードも残されている。
製作は1965年で結構古い。東京オリンピックの為の代々木第一体育館の陶板壁画制作の翌年。万博テーマ館プロデューサー就任前年と言う油が乗っている時期の作品だ。
作品は「人間と風」と言うメダルにもなっている。
同梱のしおりには「私には人間の運命そのものが風の様に思われる。激しくまた爽やかに時には優しく、かすかにこの世界を吹き抜けていく。私がとりわけ風によろこびを感じるのは生身に挑んでくる、あのドラマティックな肌ざわりだ。瞬間身も心も舞い上がり宇宙と合体する。1977岡本太郎」と書かれている。
このホテルには「風」の他にもう一つの陶板画がある。作品名は「日の誕生」。この壁画の前にある1面も併せて、ひとつの作品になっているとされている。
黄色の丸は日の誕生の際散らばる光の球を意味しているそうだ。
左の黒い壁画はナマコの様なナマズの様にも見えるが多分違うだろう。日の誕生した際、発せられた何かなのだろうが何なのだろう?
「日の誕生」の向かい側の壁にも壁画がある。太郎のパブリックアートを紹介するオフィシャル本には 「日の誕生」の一部とだけ紹介されているだけで、そもそもこの壁画を紹介しているものは少なく写真も小さい。
太郎が描く独特の文字、”太郎の象形文字”にも似ているなぁと調べてみると該当しそうなものは見つからなかった。「若」と言う文字にまあまあ近いかなぁと思ったら、下の写真”顔。背景が赤で無かったので解りづらかったが...
この壁画は”顔”と言う作品なのではないか?調べてみると壁画と同年の1965年製作となっている。「日の誕生」は3面とされているが上の写真が「日の誕生」この1面はその1部では無く「顔」って作品ではないのかなぁ...。
左の作品「顔」は割りと頻繁に原画を見る機会が多い作品だ。「顔は宇宙だ。顔は自であり、他であり、全体なのだ。そのど真ん中に眼がある。それは宇宙と一体の交流の穴」と語り多彩な顔を描き、造ってきた。○○の顔と名付けられた作品も数多い。
その中でもズバリ「顔」と言う名の作品。同名の作品が他にもあり「顔Ⅵ」と表記されたりもしている。背景は太郎の一番好きな色である”まっ赤”。
”顔は1970年代に販売された岡本太郎の絵の具の箱やカーペット、ハンドバッグのデザインにも使用されている。他にもあるかも知れない。太郎のプロダクト化された製品に多くの作品の中から使用されていると言うのは、それだけ太郎らしい作品と言う事なのか。
その陶板壁画となれば、かなり貴重なものだ。壁が真っ赤だったら完全に「顔」で決定だろう。
奥に見える「風」と廊下の壁の「日の誕生」と「日の誕生」の一部とされる作品の配置。こう見ると廊下の左と右で一つの作品と見るにはどうなのか?
太郎が84歳で亡くなる前年の1995年竣工の川崎とどろきアリーナに設置された「マラソン」「マスク」「オリンピックメダル」など、いくつかの陶板壁画も信楽製だが、その内「青空」は「日の誕生」、「風」は「風」をモチーフにし、これら作品の監修は太郎に代わり敏子さんが行ったそうだ。
左がとどろきアリーナ版の「風」。堂ヶ島版に比べると色数が多い。資料によれば太郎が信楽を訪れたのは1990年79歳の時が最後であったと言う事から、この作品の原型作りに携わっていない。
こちらが「青空」。確かに「日の誕生」に一部似ているが似ているだけでモチーフにしたかどうかは解らない。鳥の様にも見える。
1954年の同名の油彩画が存在するが、この壁画とは全く違う。1952年の「血のメーデー」をテーマにした作品で、岡本太郎の「青空」と言えばこちらの方を指す。もっとも作品名には全くこだわらなかった太郎にしてみれば「どうでも良い事」となるのだろう。
「日の誕生」をモチーフにしているとなれば堂ヶ島の”ナマコナマズ”の意味のヒントがありそうだが、この水色部分...雲?いや雲は水色では無いし。
「日の誕生」もしくは「青空」になったと思われる元絵。上がナマコナマズの元なんだろうか?只資料によっては「風」「青空」は元になる油彩画があると書かれている。
そうなると「日の誕生」「青空」は似ていて違うものなのか。
中学生頃迄、夏休みには伊豆近辺に毎年行っていた。此処では無いが堂ヶ島温泉郷に泊まった事があるし隣接の海水浴場で泳いだ事もある。西伊豆から南伊豆のひなびた感は近年薄れていっているが1965年当時は、まだまだひなびた感満載だった筈だ。
当時の著書「岡本太郎の眼」で、堂ヶ島と壁画について次の様に書いている。
「今私は、海に近いガラス貼りの明るい部屋でこの原稿を書いている。ねっとりと真青に深い、海のひろがり、手前の奇岩に身もだえした波がくだけ、真白なシブキがふき上がる。岩の上に群がる観光客があわてて逃げる。笑い声。
伊豆の西海岸、堂ヶ島。足の便が悪いので殆ど未開発だった。近頃、温泉も湧き観光地として整備され始めようとしている。
建築家の柳英男に頼まれて、この素晴らしい環境の中に建つ超モダンなホテルに壁画を入れる事になり、ここに来ている。激しく迫る大洋のひろがりに対抗した力強い壁画を作ってくれと言う注文だ。やり甲斐がある。」
文面から太郎も此処に宿泊していた。現在ではレトロ感漂う館内も当時は超モダンだった様だ。ロビーの窓からは堂ヶ島の絶景を見る事が出来る。太郎も、きっと見ていた景色。
そこで西伊豆駿河湾からの風を体感したのだろう。この周辺のひなびた感は薄れたが太郎が見た景色。太郎が感じた風。それらは作品制作当時と変わらずにいる。
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岡本太郎と信楽~”黒い太陽”生誕の地。
http://gtmgtm.exblog.jp/28873984/
2021-09-01T18:35:00+09:00
2023-03-27T20:55:25+09:00
2021-09-20T00:51:23+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
太陽の塔の裏側の「過去の顔”黒い太陽”」。直径約8メートルの、この顔が滋賀県の信楽焼きのタイルで出来ていると言う事は、万博ファンや岡本太郎ファンには、まあまあ知られている。(今回は黒い太陽で統一する。)
太郎と焼き物、立体構造の繋がりは前回、前々回に書いている常滑焼きからスタートし、その後、愛知の日本陶管と言う会社で旧東京都庁の壁画を制作し滋賀県信楽へ移る。
信楽にたどり着き1963年”坐ることを拒否する椅子”を制作する。前々回書いた、モザイクタイル画「ダンス」製作時、太郎の思う赤が無く黄色の上に赤の塗料を塗らなければならなかった事もあり「信楽ならば望む赤が出せる」と口説かれたとされる。
その後、国立代々木競技場の陶板レリーフの製作を経て太陽の塔「黒い太陽」の製作に取り掛かる。
人気の”坐ることを拒否する椅子”にも謎があり、それは今後書いてみたい。
太陽の塔の資料を見ると良く出てくるこの写真。”黒い太陽”が完成した時のものだ。完成と言っても未だ塔本体に付けられていない。
以前からの疑問。此処は信楽の何処なのだろう?”黒い太陽生誕の地”...色々調べてみたがピンポイントで示すものは無かった。
結果的に、この場所を確かめる為、決して近くない信楽を3度訪れる事となった。そこが現在、何も無いただの地面だとしても太陽の塔”黒い太陽”生誕の地となれば、それはもう歴史の舞台。その場所は信楽に行けば簡単に解ると思っていた。
最初は2015年、太郎と信楽の関係を紐解く「岡本太郎信楽へ」展に併せて訪れた。”座る事を拒否する椅子”も信楽産だったのは、この時知った。大阪万博終了後、太郎は信楽町の名誉町民にもなっていた。
「此処は何処ですか?」写真を見せ会場受付の方に聞いてみたが解らず、どなたかにその場で電話で問合せ、教えてくれたのが右写真路地の奥。この路地の奥を行った場所に黒い太陽生誕の地があるとの事。
その会社は既に無く建物もボロボロとの話。付近を探ってみたが特定出来ず。この時乗っていたタクシーの運転手さんも、色々聞いてくれたが解らず。簡単に見つかると思っていた場所は見つける事が出来なかった。
数日後この展示に携わった学芸員の方と連絡が取れ、教えてくれたのは、やはりこの付近。更にその場所は私有地を通って行かねばならずジャングル化しているとの事。そうなんだ。だから色々調べても出てこないんだ...と一般的にはそれで終わりなんだけどジャングル化していても行ってみたくなる気持ちが沸々と湧いてきたのだった。
万博では”太陽の顔”と名付けられた信楽焼きのお土産が販売された。上が太陽の顔3点セット。当時の金額が¥2.700。現在の金額で¥16.000程度だった。
下の現在の顔が¥500。それぞれ1つ直径13㎝程度の大きさだ。各太陽の顔は額装違いが多数存在する。更ににこの黒い太陽の直径30cm程度のものが現在でも2万~3万位で取引されている。
写真の現在の顔だが色味に若干の違いがある。下の現在の顔が1つで¥500なのに対し上は3点で¥2.700。右の黄金の顔の金額が高いのかも知れない。”未来の顔 純金焼付 永久保存”と印刷されたシールも貼られている。
相当な数が生産され近年、大量のデッドストックが関西の倉庫から出土し万博マスターS氏の元に委ねられイベント等で頒布されている。
信楽産”太陽の顔”は一体いくつ位作られたのか?「ミニ太陽の顔100万個」の見出しの当時の新聞記事を見つけた。”太陽の顔”は何と100万個も作られていた。100万個は3種合わせての数字と思われる。3種を均等割りしても一種類33.3万個となる。上写真の3個セットの他、白と黒の2個セットも販売された様だ。
記事によれば開幕日の3月15日に合わせ万博会場と全国有名デパートで販売される。とある。直径30センチの大きなタイプは「黒い太陽」のみ3万個生産されたそうだ。
記事通りだとすれば100万個の”太陽の顔”と3万個の”黒い太陽”は開幕前に完成していた事になる。てっきり開幕後増加する入場者数に合わせ、毎日フル回転で生産されたのかと思っていた。只、この数を生産するには毎日フル回転と言う事に変わりないだろう。
「座る事を拒否する椅子」他 左「歩み」右「顔のプランター」、オリジナルの原型がある「むすめ」等々も信楽で生まれた。
太郎は普段使いが出来る量産化された多数の製品も生み出した。前回の「犬の植木鉢」の量産型も信楽産との話もある。信楽は一般向けに販売された太郎の陶芸品の産地とも言える。
「歩み」は製作年代により形が違う。藍色の水玉のものが1964~70年頃で白の水玉が1990年頃のものとされていて首の部分に違いが見られる。時々ヤフオクに出て30~50万位で取引されているが最初はいくら位だったのだろう?「顔のプランター」は1990頃のものだそうだ。
販売と言うからには宣伝された筈。その媒体は未だ見た事が無い。一般向けに販売された量産品も現在は希少なものとなり美術館で展示される程となっている。
2015年の訪問では、生誕の地を特定する事が出来なかった。岡本敏子さんは太郎を「近代日本の歴史の中に巨大惑星の爆発のように突如出現して消えた”岡本太郎と言う大事件”」と称した。
代表作、太陽の塔の顔の1つが製作されたこの地はまさに”事件現場”とも言える。翌年、再アタックしてみたが、どうも教えてくれた場所はこの付近では無いのではないか?情報は違うのでは無いか?と思えた。
確かにタイルを焼いた会社と似た名前の会社は付近にあった。最初に問合せしてくれた時、どちらかが言い間違いか聞き間違いをしたのか?となれば地図からこの場所を指してもおかしくない。でも学芸員の方の教えてくれたのもこの付近。どう言う事なのだろう?又別の関係者の方からは「あそこは、もう無い」との証言も得た。「もう、無い」の意味が何を指していたのか解らなかったが地面が消えてしまう訳も無いし...”事件現場”の謎は深まる。
タイルは顔の部位により丸みを帯びる様に焼成されている。太陽の塔に貼られている赤の稲妻、緑のコロナと言われているイタリア産モザイクタイルは1994~95年の大改修で張り替えられたが”黒い太陽”はどうだったのだろう?
このタイルは平たく見えて反った様に焼かれている。特に鼻から口にかけては単なる長方形のタイルが貼られている訳では無い。”黒い太陽”を構成している各タイルは一品物の可能性がある。落下した時のスペアと言っても、もう1つ分の顔を用意しておかなければ対応出来ないのでは無いだろうか?
貼り替え後のモザイクタイルは塔のふもとにカケラが落ちていた事もあったが”黒い太陽”はシッカリと貼られている様だ。もし貼り替えられたとしたら旧タイルは保管されており、以前オリジナルパーツを集めて開催された”黄金の顔”展の様に”黒い太陽展”が開催されてもおかしくない。
資料によれば1969年10月11日、製造会社のグランドで完成発表が行われた。ダンプ30台分の砂を運び仮組みしたそうだ。直径約8メートルの”黒い太陽”は横27センチ縦10センチ厚さ17ミリ、約3000枚のタイルで組み上げられた。(この大きさは諸説ある)
素材にタイルを使用した事は常滑から始まったタイルや陶板を用いての作品作りあっての事だと思われる。
太郎は完成した”黒い太陽”の口にビールを注いだ。背景に小高い丘が写っているが、この敷地が相当広い事が解る。誕生の地をピンポイントで推測出来るかも知れない数少ないヒントだが、これだけでは解らない。
2回目のアタック。信楽は”縁起物”タヌキの置物で有名だ。駅では沢山のタヌキが出迎えてくれ、駅前には巨大なタヌキが鎮座し、通りにはタヌキの置物が沢山置いてある店が何軒も並ぶ。「そんなに売れるものなのか?」観光客はまばらだ。「岡本太郎のデッドストックなど置いてないだろうか?」適当に数軒の店に入ってみるも見当たらなかった。
デッドストックの様に無数に並んでいるタヌキ達。この中に、あの場所を知っているタヌキはいないだろうか?
「こっち、こっち」手招きしてくれるタヌキはいないだろうか?化されても良いから連れて行ってくれないかなぁ?なんて妄想をしていた。
出発前に、アタリを付けておいた場所に向かってみる。そこは「此処じゃないのか?」と想像させる風景が広がっていた。
「此処が事件現場 黒い太陽生誕の地」じゃないのか?って場所を見つけた。此処であって欲しいと思うも確証が無かった。
それ以上の事は一般人の私には調べる事が出来いのだ。モヤモヤ感が残ったままの帰り道、来た時は買うつもりが無かったタヌキを買った。
その日は、大阪に移動し翌日、EXPO70パビリオンのイベントへ。展示資料を見ていていると「あっ!これは!」衝撃的な瞬間だった。「この建物....昨日の信楽にあった!」
展示資料の中にあったこの写真。「万博太陽の顔披露会場」の表示がされた建物は昨日のあの場所にあったのだ。
この建物をじっくりと見ていなかったのに何故、この写真を見た時「あの建物だ!」って感じたのか解らない。気にしていなかった建物の玄関と資料の写真が記憶の中で合致したのだった。何と言う奇跡。タヌキに化かされているかの出来事。買ったばかりのタヌキの御利益か?
急いで写真を見返してみる...「あった!」此処だけ重点的に写したものは見つからなかったが、建物の隅が少しだけ写った写真を見つけた。何と言う事だ。アタリを付けた場所は大当たりの可能性が出てきた。この写真に遭遇しなければモヤモヤが晴れる事は無かっただろう。タヌキのお陰だ。
直ぐに信楽迄戻り確認したかったが時間が無かった。別のモヤモヤ感が残ったまま次の機会を待つことにした。
「もう一度、行かねばなるまい。」当時披露会場となった建物を確かめに...何とか同じ構図の写真を撮って来なければ...と2018年夏3回目の信楽。
万博開催準備の写真に当時「万博太陽の顔披露会場」と掲げられた案内。この場所の付近で”黒い太陽”の仮組みが行われ上の写真が撮影された筈なのだ。此処が歴史の舞台。”大事件現場”と思いたい。横にある空地がその場所と考えるのが自然だ。
日本の至宝「太陽の塔」の背面を司る顔の完成披露会場となった建物が現存しているとは!驚いた。そしてこの建物が”ただの地面”となっている探し求めた地点を示す印となっていたのだ。
この時、入口脇に貼られていた案内が残っている可能性もある。掛け軸になっているかも知れない。「何でも鑑定団」で紫の布が引かれ、この掛け軸が披露された絵とその後始まるナレーションを妄想した。
前回は此処がその場所なのかなぁ?と言う目で見たが、3回目はかなりの確率で此処だと言う目で見ている。「黒い太陽」の大きさは直径約8m。この敷地の中ではほんの僅かな大きさでしかない。ピンポイントで確定する事は出来ない。只この写真の構図の何処かに「黒い太陽」は並べられたのだ。(と思いたい。)
目を閉じ、その光景を想像し妄想し瞑想してみる。信楽タヌキに化けてもらった。脳内のバーチャルな空間に”黒い太陽”がしっかりと浮かんできた。
”黒い太陽”の全体写真は高い位置から撮影されていた。それは何処なのかと思っていたらネットで見つけたこの写真。後方に高見台の様なものが見える。そうかこの場所から撮影したのかと思った。製作中も高い場所で確認しながらの作業になったのだろう。
しかし太郎の下に見えるのは左目と思われる。高見台の様な場所から撮影すると反対の構図となってしまう。タイルを並べる時も然り。写真に写るものは関係ない構造物なのか?事件現場には、そんな構図が撮れそうなフェンスが残っていた。その高さからならあの構図が撮れそうな気がした。
わざわざ現地に持って行った「黒い太陽」を跡地に置いた。計算が合っていれば本物の約3053分1の大きさだ。3053個並べるとその大きさが体感出来る。当時製作された100万個の”太陽の顔”平たく並べると、どれ位の広さとなったか?何とお祭り広場大屋根の面積に近い。
3053個のデッドストックはあったかも知れない。この場所がもしあの場所であったならで原寸大の「黒い太陽」を再現したらどうなるか?タヌキにお願いしても良い。信楽に並ぶタヌキがある日3000個のタイルとなり「黒い太陽」を完成させるのだ。絵本になりそうな話だ。
色々な動物の立体彫刻を製作した岡本太郎。信楽タヌキを見ていただろうが、いたずらでもタヌキを作らなかったのだろうか?太郎なら、どんなタヌキを作ったのだろう?見てみたかった。
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岡本太朗と常滑~2犬の植木鉢の謎
http://gtmgtm.exblog.jp/28841325/
2021-08-29T14:42:00+09:00
2021-08-31T17:05:20+09:00
2021-08-29T14:42:46+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
岡本太郎と常滑その2。太郎作品の中でも人気の「犬の植木鉢」。今年発売されたポリストーン製ミニチュア第二弾の箱には「岡本太郎記念館の庭で人気を独り占めしているのが”犬の植木鉢”。とりわけ女性の人気が高く、これを見つけると一様にに「かわいぃぃ」と歓声をあげながら写真を撮る。
太郎自身は「この動物は猫でも犬でもない四つ足である。庭に猛獣をうろうろさせた。しかし、どうも私が作る猛獣はかわいくなって仕方ない。我が家を訪れる客は私にそっくりだとからかう。」と書かれている。
60年以上前の作品だが、謎多き作品だ。今の処、太郎の文献やネットを見ても明確に解説されているものに、遭遇出来ていない。
関係者には謎で無いかも知れないが文献等で調べる事しか出来ない一般人の私にとっては多くの謎がある。例えば一体幾つあって、どれが太郎が手でこねた”手ごね”。つまりオリジナルの植木鉢なのだろうか?と言う謎。
1954年。初期のもの3体が常滑の伊奈製陶(現リクシル)で焼かれたものだそうだ。これは前回書いた「顔」の製作2年後と言う事になる。常滑産の3体が”手ごね”犬の植木鉢と言う事で2体が岡本太郎記念館、1体が岡本太郎美術館にあるとされている。
上2体が太郎記念館、3体目が太郎美術館で撮影したもの。この3体が常滑産”手ごね”の「犬の植木鉢」と言う事なのか?(以後 ”犬植え”と略す)
常滑産以降、型取りをした量産型も存在しているらしく、これが”手ごね”と言う確信は無いが、これが”手ごね”の犬植えと言う事にしないと、収拾が付かない。
只、上の記念館庭にあるものは国宝級の初期のものを此処に置くかなぁ?上から二番目は少し綺麗かなぁ?と言う疑問はある。
量産型がある..と言う事は「犬の植木鉢」は一般に販売されたのだろうか?ある資料によればオリジナルは約80センチ。それを原型とした量産型は焼成時に収縮し約50センチ位になると言う。つまりオリジナルか量産型かは大きさで解る事になるのだが。
(以降1番上を記念館1号”くちポカーン 縦じま”タイプ2番目を記念館2号”ニヤリ 、左を美術館3号”顔まだら”タイプとする。)
量産型”犬植え”が何時頃、販売されたのか?の疑問には1963年頃では無いかとの説がある。果たして値段はいくらだったのか?どれ位作られどれ位売れたのだろうか?
以前美術館の学芸員の方に座る事を拒否する椅子について質問した際、ダイエーで何体か発見されたものがあると言う事を聞いた...つまり犬植えは一般販売された...ダイエーでも販売された...後に売れ残りのデッドストックが数体発見された。デッドストックは何時発見されそれらはどうなったのだろうか?肝心な事を聞きそびれた。
広告など販売資料もある筈だが未だ見た事は無い。それがあれば、価格や販売経路などが解ると思うのだが。
これは1955年4月3日。自宅(現記念館)で北大子魯山人や丹下健三が招かれて行われた「ピカソを超える茶会」(実験茶会とも呼ばれ形にとらわれない自由な発想の茶会だったそうだ。)での写真。太郎が座っているのは”顔の椅子”か?
ここにも”犬植え”が登場している。時期的にも常滑産の手ごねのものか?。口の開き方と顔にスジが入っている記念館1号に似ている。只、白黒で解り難いが胴体が白っぽく見える。
アトリエでくつろぐ太郎。(土門兼撮影)これも1955年だそうだ。ここには犬植えが2匹写っている。1955年はオリジナルが作られた翌年。これが”手ごね”の犬植えか?
左写真を見てみると...これは?記念館1.2号、美術館3号と表情が違う。角度の違いでそう見えるのだろうか?左のものは耳が短い様にも見えるが表情は記念館庭にあるものと似てる。右目が若干三角っぽく見えるけど耳が短く見えるのが写真のせいだとしたら記念館庭のものかなぁ?
右は?表情は記念館2号に似ているんだけど口の中が白くない。結構ニッコリ笑っている。どうなんだろう?幻のニッコリ版。かなり、かわいい。
左が今年販売されたポリストーン製ミニチュア。記念館2号がモデルか?
パッケージに写る犬植え。左上のキャプションには1955年。岡本太郎美術館とある。パッケージは庭で撮影されている様だが、やはり同所で撮影した記念館2号か?
これは「岡本太郎 立体に挑む」展図録にある犬植え。岡本太郎美術館蔵。1963年と記されている。
岡本太郎記念館の記念館2号とそっくりだ。1963年量産型製作説と合致する。つまり記念館2号が原型となった量産型が左写真のものなのか?只そうなると上から2番目の記念館2号が常滑産”手ごね”の現物との確証が持てない部分でもある。
図録によると大きさは600×800×200 とあるので焼成時の収縮想定の寸法には近く無い。撮影した記念館の寸法は解らない。手の平ででも測っておけばよかった。
これは1964年1月の岡本太郎展(西武百貨店)での図録に出ていた犬植え。1963年とある。記念館1号と同タイプだ。大きさは100×100と記されている。1963年と書かれているには、何処かにそれを印すものがあるって事なのだろう。
上写真と共にポリストーン製ミニチュアとなった記念館1号の1963年版が存在する事が解る。
これは丹下健三さんが特集された本に載っていたもの。娘さんの誕生日に生け捕って来たものと書いてあった。
丹下さんの回想では最初に興味を示したのは犬だ。この彫刻に興味を示したのか沢山の犬がやって来て吠えるので近所から苦情が来た。その次に近所の子供たちのアイドルとなり母親を案内してくる子もいた。ところが「これは一体なんだね」と興味を示さない。犬からはじまって目下子供の段階だがいずれは大人が興味を示す時が来るだろう。と予言していて予言は現実となっている。
耳が折れているが最初からなのだろうか?こちらの胴体は白っぽく見える。これは未だ丹下さん関連の場所にあるのかなぁ?と思っていたら2017年「岡本太郎×建築展」の図録に見つけた。耳はやはりひとつだ。
実際この展覧会に行ったが、この頃は未だ犬植えについて何の疑問も持っていなかったので只漠然と見ていただけだと思う。
いっしょに写っている美術館1号と比べると明らかに大きさが違う。これが型から起こした焼成時の収縮説の裏付けなのか新たに手でこねたものなのか解らない。
個人蔵...つまり丹下さんの娘さん所有なので、なかなか見る機会は無いと思っていたが2021年近現代建築資料館での丹下展で展示されていた。...まさか丹下展で展示されるとは!大きさは510×510×320とあった。
左手前の作品青が丹下さんが設計した旧都庁の壁画となりそのカケラが一部現存している。って事を本家小田原建築探偵の製作途中で止まったまま10年以上が経過してしまった。
型から起こしたものならば耳は折れてしまったと言う事なのか?と調べていたら何と!丹下健三自邸(現存せず)に関する論文中に犬植えの写真を見つけた。
耳はふたつ付いていた。そして1954年から丹下亭南庭に据えられたと記載されていた。つまり製作されたとする1954年に、この場所にあった訳だ。つまり製作後すぐに丹下さんの家にやって来た極初期の犬植えと言う事だ。
ここには娘さんの回想も書かれていた。通りがかりの大人が彫刻を訝しげに眺めたのに対し、散歩中の犬がお辞儀をして通るため、丹下は「最近の犬は現代美術を理解している」と評したと記されている。
こちらは滋賀県立信楽陶芸の森にある犬植え。元々太陽の塔背面の黒い太陽の製作時助手をしていた方の個人蔵だったものだったが、どういった経緯で貰ったものかは覚えていないそうだ。
後ろにはTARO54と印されている。大きさは540×390×140。54とは”手ごね”の犬植えが製作された年だが東京で焼かれた可能性が高いのだそうだ。丹下さんの犬植えと大きさが近いのか?
ポリストーン製第一弾の箱に写る太郎と犬植え。太郎さんがヒゲを生やしているのと髪型から1955年撮影の写真に近いかなぁ?
こちらの胴体も白っぽく見える光の加減かなぁ?大きさも小さいタイプに感じる。うーん。解らない。他の背景とかから実際の胴体の色が推定出来そうだ。
こちらも太郎さんと記念館1号タイプ。太朗デザインの浴衣を着てサイコロ椅子に座っている。1959年頃の撮影の様だ。
長々と、犬植えの謎を書いてきたが結論を言えば...一般人の私には解らないって事。良い線まで来てるかも知れないけど...犬植えは1954年の”手ごね”版3体と”型から起こした”1963年版があるんじゃないか?って事。
ICチップでも埋め込んでおかないと将来的に関係者でも解らなくなったりして。あと幻のニッコリ版があるのかなぁって事。
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岡本太郎と常滑。
http://gtmgtm.exblog.jp/28693886/
2021-06-27T17:00:00+09:00
2022-03-10T21:33:48+09:00
2021-06-27T17:00:09+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
常滑。...第二弾。岡本太郎とやきもの。岡本太郎と常滑。太陽の塔背面の過去の太陽のタイル、坐る事を拒否する椅子、歩み(花瓶)、顔のプランター、むすめなどの(量産型)の作品で語られる岡本太郎と信楽の関わりより以前...それは愛知県常滑、伊奈製陶(現LIXIL)のタイルとの関わりだった。
太朗は幾つものモザイクタイル、クラッシュタイル、陶板を使用した作品を製作しているがその初期...文献によれば青山以前、世田谷上野毛の自宅浴室を作る際に関わった伊奈製陶から1947年から発売された77色の1センチ角のモザイクタイルで太郎の絵を再現する事を提案され「群像」を製作依頼した事からその可能性を見出したとされる。
一点ものの絵画を工業製品であるモザイクタイルで製作すれば量産や展示環境に余り左右されない大型作品が出来ると考えた様だ。
その後「太陽の神話」~「創生」~「ダンス」をモザイクタイルで製作するが、その現場となったのが常滑の伊奈製陶だった。太郎が立体作品へ向かう初期の段階で関わったのが常滑だったのだ。
「太陽の神話」と「ダンス」は現存している。写真左「太陽の神話」は以前岡本太郎美術館で展示されていた時のもの。通常は東京駅隣のビル内大和証券にあるが残念ながら撮影禁止となっている。
この作品の為だけでは無いだろうが真正面に警備員が立っている。博物館などでの監視では無く警備レベル。至近距離まで近づく事が出来るが、太郎作品の中で多分一番厳戒態勢で展示されている。
現在、展示してあるビルは極めて近年の建築だから、この作品も大和証券所有だとしても以前は別の場所にあったのだろう。旧社屋か?ここには「踊り」と言う陶板壁画(現存せず)もあったと言う。最初は読売アンデパンダン展に出品されたものだ。どんな経緯で現在に至るか知りたい処だが一般人の私には調査出来ない。
写真左は「ダンス」。大阪高島屋レストラン街で見る事が出来る。元々1952年に製作され高島屋大食堂に1969年頃まで飾られるも約40年、倉庫に眠ったままの作品を修復し2011年から展示されている。
この修復の場となったのも常滑。この地にあるINAXライブミュージアムにて修復作業が行われた際、黄色の上に赤の塗料が塗られたタイルが確認された。ラインナップの赤と太郎の求める赤が違い、タイルの上に赤の塗料を上塗りしたと言う噂話は元々あったそうだが、修復作業でそれが事実だった事が確認された。
作品全体を見れば赤はこの部分だけだ。太郎が大好きだった赤。赤や黄色は、その色自身では下地を隠せない極めて隠蔽(いんぺい)力の無い色だ。塗装では必ず下塗りが必要で再現出来る色調は下塗り、中塗りの色に左右される。
下塗り中塗りには一般的に白やグレーが用いられる事が多いが、その違いだけでも再現される赤は違ってくる。赤の下に使用する色の違いだけで様々な赤が再現出来るとも言える。
その特徴を利用して独特の色調を出す手法は自動車のボディーカラーでも取られている。近年ではスパッタリングとも呼ばれ赤クリアーの下にメタリックが塗装されていたりする。
これが思った様な赤が出せないと塗料で塗った部位。剥げた箇所をそのまま残す工法が取られた。修復も製作当時に比べ「どこまで戻すか」等、相当深い話となってくる。
古い仏像だって元々総金箔や極彩色だったりするし欠損した部位を復元しているものも多い。古すぎて写真も無い時代のものを作者の意図を想像しながら行う精密な作業だ。
太郎作品の修復に関してのスタンスは最近放映された番組によると製作当時に戻すと言う事だそうだ。これは岡本敏子さんの希望だそうだ。
下地となるタイルの色は白でも良かった筈だが黄色の上に塗ってある。求めた赤がラインナップに無かった説ではあるが、求めた赤は更に黄色下地上でしか再現出来なかった色調、じーっと見ていると赤の下にある黄が発色している様なフェラーリの様な赤だったのだろう。
この作品以前の写真左「群像」写真上2番目「太陽の神話」の赤はどうだったのだろうか?以前だから太郎の求める赤のタイルは無かった筈だ。「太陽の神話」を見てみれば何と太郎が求めていたらしい赤が無い!
以前岡本太郎記念館で展示された「群像」は?これは伊奈製陶が太郎の原画を元に製作したものだそうだ。こちらは若干の赤がある。こちらの赤は元々のラインナップにあったもの?伊奈で製作されたものに太郎が赤に手を加えたのか?
岡本太郎と常滑。太郎初の立体作品「顔」1952年作。3体製作され多磨霊園にある父一平の墓石にもなっている「顔」こそ太郎と常滑すなわち常滑焼とのつながりだ。一平の墓碑の隣には母かの子の墓碑も並んでいる。太郎自らが手でこねている写真も残っている。
現存しないモザイクタイル画「創生」の製作時、平行して作ったそうだ。岡本敏子著書によれば焼き上がりで割れてしまう可能性があった為、3体作られ結果的に全部割れずに完成したと言う事だ。
1体が一平の7回忌に墓石として設置され1体が伊奈の社長に送られ、1体は岡本太郎美術館蔵と記されている。1体は常滑にあると言う事になる。又INAXライブミュージアムには「顔」のマケット(小さな試作)が収蔵されている。
1954年一平の7回忌の際、墓碑となった際の側面の穴に「これが親孝行のしおさめだ。」と線香がたむけられモクモクと煙があがっている写真が雑誌に載っていた。側面の穴全部に線香が一束ずつ立てられて煙があがっているのだ。
「何だこれは?」の墓碑版だ。元は花器として製作された「顔」を何故墓碑にしたのかは私が持っている資料からはハッキリしない。
「顔」は反対側にもうひとつの「顔」を持っている。太郎がこちら側を表と設置したと言う事はこちら側が表面なのだろう。かわいらしい作品だが夜見ると怖いだろう。「墓碑のうしろに顔があってもいいじゃないか」と墓碑のうしろにも顔がある。
裏面の顔の鼻の部分のギザギザはどんな意味なのだろう?以前は、それ程好きな作品ではなかったのだが最近欲しいと思う位、結構気に入っている作品だ。
そして太郎の墓。「若い夢」。「あれはまさに岡本太郎でしょ」と岡本敏子さんが選んだと言う。現在は敏子さんも一緒に眠っている。
「午後の日」とも名付けられた作品含めいくつか存在している太郎作品の中でも人気の高いものだ。太郎の墓に関して「午後の日」と表記されているものが多いが2019刊「岡本太郎記念館の20年」(及び記念館のサイト)にはハッキリと「若い夢」と記されているので「若い夢」なのだろう。
見分け方はある様だが見分けにくい。姫路には「若い泉」と言うソックリな作品もある。元々この作品名は太郎が付けたものでは無く敏子さんが付けたそうだ。きっと敏子さんにしか解らないのかも。
太朗が眠る多磨霊園には日本万国博覧会開催に尽力した石坂泰三氏も眠る。石坂家の墓の横には泰三氏の功績を記した銘板がはめ込まれた石碑が建っている。
左列が泰三氏の年表で右列に勲章を貰った履歴が記されている。大阪万博閉幕5年後の1975年に逝去されている。享年88歳。80を越えての万国博覧会会長と言う人生最後の大仕事を担った。万博記念公園駅を降りた処には石坂さんの銅像が建っている。
さぞや立派な戒名が付いておられる筈だが...しまった!墓石横を見てくるのを忘れてしまった。ネットで調べても今の処解らない。石坂さんの功績は万博だけでは無いが万とか博が入っていたら凄いなぁ。
そう言えば太郎の墓にも太郎の戒名が見当たらなかった。岡本家全員見当たらなかった。生前の名前が刻んであるだけだ。「死は祭りだ。」と葬式を嫌っていた太郎の葬儀は行われず、送る会が営まれた位だから戒名も無いのかも知れない。
そもそも太郎に戒名を付ける事が出来る人なんていないだろう。あるとすれば敏子さんが選んだ文字を含んだものになっただろう。
左は以前もブログに出した太郎作品集に書かれた太郎のサイン。1968年当時の金額で¥9500、限定500部発行されたものでシリアルナンバーも入っている内の一冊。只の贈呈本では無く太郎が石坂さんに贈った貴重な逸品。大阪万博における重要人物から重要人物への極めて貴重なサイン。しかも漢字とローマ字の2パターン書いてある。
指紋って、どの位残っているものだろう?と調べてみれば付着している物質と周辺の保存環境によって大きく変わるとの事。ガラス、プラスチック、金属などは2.3カ月程で消えてしまうそうだ。雨に濡れてもすぐに消えてしまうそうだ。逆に紙類は、何十年でも検出出来る事があるそうだ。
きっとこの本には太郎と石坂さんの指紋が未だ残っているかも知れない。但しその上には古書店で購入したので私含め他の人の指紋も沢山残っている。
岡本太郎と常滑...まだ続く。
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「月の石」と「月の椅子」。
http://gtmgtm.exblog.jp/28434858/
2021-02-08T19:29:00+09:00
2021-04-12T02:21:11+09:00
2021-02-08T19:29:04+09:00
banpakutantei
万国博
前回続き。タワー跡地で蜃気楼の如きタワーオブライフのジョイントを発見したのはこれまでS氏と書いていた白井達郎氏のコレクションの個展の帰りだった。
”万博グッズ三昧!” 万博少年が46年間集めた万博グッズ約2000点。それまでも万博イベント等で小出しに展示された膨大な万博グッズ&資料をカテゴリー別に一気に展示すると言う、遂に来るところまで来た感のあるイベントだった。
東京オリンピック2020でも数々のグッズを見かけるが、大阪万博1970程”こんなものから、あんなもの。あんなものから、こんなもの。”が作られたイベントを超えるものは無いだろう。
万博マークと太陽の塔で占められた万博グッズ。現在の様にロゴマークの他にイベントキャラクターも作られる構図は無く太陽の塔そのものが最強のイベントキャラクターとなっていた。
展示順路の終盤、何の説明も無く置かれた石とそれに座る人達の一枚の写真。これは一体?正確には焼き物だったのだけどこれは何なのだろう?近未来的な会場デザインと真逆なイメージの焼き物。今まで色々な万博資料を見てきたが、これは初めて見た。この焼き物...当日最大の謎となった。
氏に、この焼き物の所以を聞きそびれ、その内に忘れてしまったのだが、近年、愛知の大仏様をネットで調べていた時、これについて書かれたものを見つけた。
それは愛知県常滑産 ”月の椅子”と名付けられた焼き物の椅子なのだった。それらは開催当時、エキスポタワー下にあり閉幕後は常滑に戻り現存していると言う。万博会場にあったもの、あの敷地内にあの期間あったものがあるとなれば確認せずにいられない。
タワー解体後も多くの謎を問いかけてくるこのエリア。色々な万博資料を見ていても、情報は薄く殆ど出てこない謎多きタワー下。
この椅子はその謎多き場所にあったものだと言う。となれば謎多き場所にあったものの謎説きに行かねばならない。
あの会場内にあったものは未だ内部に熱気を閉じ込め物好きな万博おじさんが来るのを待っているに違いないと途中、聚楽園大仏を参拝し愛知県常滑市に向かう。(2020.02月)
サイトによれば”月の椅子”は市内数カ所に残っていると言う。”月の椅子”マップなど作っているかも知れないと期待し駅の観光案内所を訪ねてみたが案の定、その存在すら把握されていなかった。よくある話。
”月の椅子”があると言う常滑陶芸研究所に向かい先ずは、その存在を確認する。”月の椅子”の一部は敷地内に、あっさり確認出来た。
後ろに建つのは伊奈製陶(INAX→現LIXL)創業者、伊奈長三郎氏の像。有名な陶器、世界有数のタイルメーカーは常滑が創業の地だったなんて!初めて知った。そしてその創業者の像の元に置かれた大阪万博メモリアル陶器の一部は結構良い場所に残されていた。
岡本太郎が信楽と出会わなかったら、太陽の塔背面、黒い太陽のタイルが常滑製になったなんて可能性もある。
受付で「あのぉ、大阪万博の」と切出すと他の”月の椅子”の所在を教えてくれた。敷地内には未だ沢山の”月の椅子”が残っていた。又案内してくれた方は何と、おじいさんが”月の椅子”を作ったとも教えてくれた。
頂戴した地域情報誌によれば、常滑は土管の産地としても有名だが当時は未だ知名度が低く知名度アップを目標としており万博会場での常滑陶器採用の営業努力が実を結び万博会場へのに常滑製の大型陶製プランター(花壇)200個の採用が決まったそうだ。
果たして会場内での写真が無いものかと探していたら、せんい館前に配置された写真を見つけた。
博覧会協会から陶製プランターとは別に大型陶製置物の製作の打診あり当時の常滑の作家たちが提案した陶製ベンチが採用されたと言う。
コンクリート・鉄・ステンレスなどの素材が主役となる近未来的な会場の中に土から作った椅子を置けば憩いを提供できると言う発想だったようだ。どうりで私が万博会場をイメージするものと真逆のデザインである訳だ。
製作デザインの条件は波型を織り込む事とし常滑の若き陶芸家達が関わり約一年を掛け陶器を焼く熱以上の熱量を込め製作したそうだ。
設置場所もこの形状からは日本庭園が合いそうな感じがするが万国博南口から万博階段を通り太陽の塔が正面に見えてくる相当な人が通過するエリアが選ばれたのも椅子が放つ静かなる熱量のせいだったのかも知れない。
陶製の椅子は250個程製作し会場に100個設置された。設置場所はエキスポタワー下が決まり椅子の名は当時話題となった月の石をもじり”月の椅子”となった。
完成した椅子はトラック数台に載せられ製作者数名と市の職員によって会場に設置された。苦労して設置を終え大型の陶製ベンチに寝転がると真上にエキスポタワーが建ちその迫力に圧倒されたと当時設置に携わった陶芸家は回想する。
寝転んでタワーを見上げる...なんとも羨ましい経験。
”月の椅子”...ネーミングの気持ちは理解出来るが、この椅子と月とは全く関連が無さそうだ。しいて言えば月の表面的な感じがしないでもない?と思っていたが...否!
波型を織り込む事と言うデザインの共通の条件から出来上がった椅子はNASAの有名な写真...アポロ11号のアームストロング船長が”一人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとって偉大な飛躍”と月面に残した靴跡とそっくりなイメージではないか!
驚いた!”月の椅子”のネーミングは単に月の石を文字った訳では無く人類にとって偉大な飛躍の一歩となった足跡...更には常滑が全国区に踏み出す大きな一歩をダブらせたと解釈した。
会期中、多数の来場者が陶製ベンチに腰を下した。常滑の名を広めると言う目的は十分に果たしたと考えられる。
万博終了後、当時の常滑の若者が陶器を焼く熱以上の熱を込めて製作された”月の椅子”は更に万博会場の熱気を閉じ込め常滑に戻って来た。
それらは現在市内9カ所に配置されている事が確認出来るそうだ。私も此処以外で合計3カ所の”月の椅子”を確認した。
”月の椅子”の脇にあった陶製の銘板。万博会場にあった事を示す印ではあるが、その所以を示すものは無い。
この椅子の共通のデザインである波型...これは何とも座り難そうだ。まるで常滑版 岡本太郎”座る事を拒否する椅子”の様だ。
拒否椅子より更に座り難そうなデザイン。実際座るとお尻は痛い。常滑に戻った陶製ベンチ。沢山あるので今こそ万博記念公園に一部でも戻ったらなぁなんて考えた。未来都市から自然豊かな公園になった大阪万博跡地に結構マッチするんじゃないかなぁって思った。
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2020結局 5カ月ぶりの更新。
http://gtmgtm.exblog.jp/28374900/
2020-12-29T13:35:00+09:00
2020-12-31T02:40:15+09:00
2020-12-29T13:35:36+09:00
banpakutantei
万国博
前回のブログの最後。2016年夏。タワー跡地タワーオブライフに使用されたジョイントが突如現れたの如く書いた。記憶的な暑さの中、フェンスの遥か彼方に蜃気楼の如く現れたジョイント"オブ"タワー"オブ"ライフ。
もしかして場所を変えながらタワー跡地にあったのではないか?と推測する。跡地は絶えず変化していて、ある時は瓦礫が積み上げられていたり、建設事務所が建っていたりして、その陰に隠れて気付かなかったのでは無いか?
写真は2010年2月。鉄鋼館がEXPO70パビリオンとして公開される2週間程前の写真だ。タワーオブライフに使用されたパネルはブルーシートが被され70パビリオン内に移動されていたのを外から確認出来た。ジョイントは跡地に転がされたままで何故一緒に展示されないのかなぁと思っていた。
2007年4月位。突如として手前に常設(と言って良いか解らないが)されていたジョイントとポールと共に創建当時のメタルカラーに塗替えられた。
エキスポタワーは創建当時はシルバーだったと言われるが当時の写真を見るとジョイントはダークグレーだった。更にキャビンをつなぐジョイントとポールや階段部分は白、キャビンの一部はオレンジに塗られていた。
メタルカラー化直前のキャビンとジョイント。1972年再公開時に白と赤に再塗装された。
2003年ヤノベさんによりタワーオブライフと言う作品に変わったキャビンのパネル。実は個々の廃材には手が加えられていない。限定された部材を組替えられて作品は作られた。元の個はオリジナルを保ったままだった。
こちらは2006年5月の位置。この作品により、なかなか見る事が出来なかった屋根部と内側を見る事が出来た。
キャビンは大部分が凹の面が表を向いていたからくすんだシルバーは元は内側をだった部分。只屋根部は雨が溜まらない様凸部が表を向いていた。赤のパネルは屋根部分だった事が特定できるしタワーの柱に塗られていた赤...在りし日のタワーを思い出させる馴染みのあるくすんだ赤の生き残りでもあった。
熟れ切った果実が落ちてきたとの表現は言い得て妙で、パネルは裏表にされ組替えられただけなので、元々こんなキャビンが1つ付いていたかも知れないし実際にタワーがメタボリズム化されたら、こんなキャビンになった可能性は結構高い。
現在のタワーオブライフのパネルは再び凹が表に向けられ組み替えられているが何か元キャビンの雰囲気が全く無いなぁと思っていたら、ああ...パネルをつなぐポールとジョイントが無いせいなんだと思った。
結局解体の時にはこれらタワーの一部は保存されずヤノベさんの作品となったパネルが偶然にも残されメタル色に塗変えられたものが組替えられ展示されている。
ヤノベさんが作品を制作しなかったら残っていなかったタワーの部材である。
これも最初はパビリオン内に展示されていたが表に出されてしまった。
前回書いたブリュッセルのアトニウムのパネルの一部は1000ユーロで売りに出されたそうだがキャビンのパネルも販売して欲しかった。
さて今回の本題は突如現れたタワーオブライフに使用されたものでは無くずっとこの場所にあるもうひとつのジョイントとポール。これらは一体いつからこの場所にあったのだろう?
タワーと同じ部材だがタワーの一部ではなかった部材。組み立てる時に余ったものなのか元々見本の様なものだったのか予備品だったのか?
左の写真。公式記録にも白黒の写真が載っているが万博当時、タワー下にジョイントが展示されていた事が解る。後方にはペプシ館も見える。この時のジョイントが跡地に現在も残るジョイントなのだろうか?
このジョイントがタワー跡地にずっとあるものと同じものと考えるのが妥当なのだろうが確信が持てない。大きな違いとしてコンクリートの台座の形状が違う。
台座とジョイントに銘板が付いている事が確認できるが、台座そのものが違うのと銘板が確認出来ない。コンクリート製の台座は移動する時に壊れてしまったのか?
台座の銘板には”エキスポタワーを支える鋳鋼製ジョイント”と記されている。ジョイントに付けられた丸い銘板には日本鋳造(株)となっている。この銘板の存在が決めてとなる筈だがこの位置から確認する事は出来ない。
大阪万博当時、エキスポタワーを意識した事は無かった。もしかしたら知らなかったのかも知れない。だから、くすんだ赤と白とサビ色の配色こそが私にとってのエキスポタワーの配色だった。
元は極彩色や金色だった仏像の色が退色し金箔が剥がれた現在の姿の方が違和感が無い事に近い感覚と言うか2000年30年の時を経て再会した時のくすんだ赤、サビ色が混じり所々元のシルバーが見えた白の方が馴染みがある。
エキスポタワーが赤白だったのは地上60メートルを超える構造物は東京タワーの様に赤白に塗装しなければならないと言う航空法の規制がある為だ。東京スカイツリーや高層ビルの様に航空障害灯を代替設置する例もある様だ。
ここでエキスポタワーの赤と書いている赤は調べてみると「インターナショナルオレンジ」と定義されている赤に近い鮮やかな朱色なのだそうだ。
解体時に採取されたパイプの素地を間近で見る機会があり、その時驚いた事がある。解体で白の塗装が割れた鋼材の素地を見ると全くサビていなかったのだ。つまりパイプ表面の俗に黒皮と呼ばれる酸化被膜によってサビから守られていた訳だ。
タワーがサビだらけに見えたのは一部腐食した箇所から流れたサビ汁が汚したものの様な気がする。
航空法の規制があったと言う事は、あのくすみ方から見て塗替えしなければならない時期だったのではないか?とも思うけどその予算も無かったのかも知れない。壊す予算と維持する予算の選択の中で壊す方が選ばれた訳だ。
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幻のせんい館人形をさがせ!リターンズ番外編からの○○完結編。
http://gtmgtm.exblog.jp/28163267/
2020-07-13T02:51:00+09:00
2021-01-17T01:33:12+09:00
2020-07-13T02:51:50+09:00
banpakutantei
万国博
”幻のせんい館人形を探せ!リターンズ番外編”は1958年ベルギーブリュッセル万国博のシンボルモニュメント アトミウム。行ったのは2018年5月。
ブリュッセル郊外、地下鉄 Heysel駅を降りるとすぐ前に建っている。ブリュッセル万博については詳しくないので多くを述べる事は出来ないけど万博にはやはりシンボルモニュメントは必要で閉幕後も残すべきだなぁと感じた。
太陽の塔のお土産は大阪中で売っている訳ではないがアトミウムのミニュチュアは小便小僧の置物と共にブリュッセルの何処でも沢山売っていた。此処で買ってこそ意味があると思いアトミウム売店で購入したが街中で売っているものと同じものと思われる物だった。ただトランクに入れるとかなりのスペースを取りそうな銘板の付いたものも、あったので今思えば無理して持って来れば良かったなぁとも思う。
アトミウムは2002年から2004年まで改修工事が行われ当時のアルミニウムの球体パネルがステンレス製に変わったそうだ。この改修工事で万博当時のアルミニウムパネル約2メートル角が1000ユーロで売られたそうだ。
太陽の塔黄金の顔のカケラは小さくされ販売された事があるが約2メートル角の大きさとは置き場にも困るかも知れないけど何とも羨ましい。
球体窓から見たブリュッセル万博会場跡地。眼下には万博会場が広がっていた筈で当時の画像を見るとアトミウムの下をロープウェイが動いていた。大阪万博会場でもロープウェイが運行されていたけど、この頃既に見本があったんだなぁ。
帰ってから調べてみるとアトミウム周辺には他にも万博遺構が残っている様だけど準備と現地での時間が不足していて確認する事が出来なかった。当時のエスカレータも一基残っている事は帰ってから知った。
私が未だ生まれていなかった1958年。日本では長嶋茂雄がデビューし売春防止法が施工され東京タワーが施工された年だった。ブリュッセル以降の国際博覧会としては1962シアトル、1964ニューヨーク、1967モントリオールを経て1970大阪万博となる。ブリュッセル博は大阪万博12年前に開催された
球体の上部まで一気に登るヨーロッパ最速と言われるエレベーター。本体は当時のものとは違うだろうが、この方式だと多分多くの人数を運ぶ事は困難だったのでは無いかと思う。
大阪万博12年前の万国博覧会。当時のアトミウムの展示はどの様なものだったのだろうか?と調べてみたが上層階にレストランがあった事は解ったが英文欧文で書かれているのと内部の写真があまり見当たらなくて詳細は解らない。眼下の眺望を楽しむ展望台としての機能がメインだったのだろううか?
エレベータホールを出ると展望室となる。上部にはレストランがあった。公開されていない球体も幾つかある様だがエスカレーターや階段を利用して各球体を移動する様になっている。
球体から球体へ渡るチューブ内。動画を撮影していたので写真が無いがSFチックな演出のエレベータもある。
球体内にはブリュッセル博の記念品の展示しブリュッセル博を記念するコーナーもあった。大阪万博より12年も早く開催された博覧会のシンボルモニュメントは、現在でもかなりの未来感を感じさせる。
この様な球体を1つ組み込んだ建物は日本でお台場のフジテレビ、藤沢の湘南台文化センター、名古屋市科学館プラネタリウムなどにも見られる。何れもこのアトミウムを参考にした様に思える。
今回唐突にアトリウムの話題なのかと言うと...それはベルギー出身の画家ルネ・マグリットつながり。期間限定?で球体の一つはルネ・マグリットのコーナーになっていた。
マグリット人形を知るまではルネ・マグリットの事を知らなかった。ルネ・マグリットの作品があってこその大阪万博せんい館のマグリット人形。写真に写る顔の無い男に顔を与え人形にしたのがマグリット人形。
この絵から、あの不気味な表情を創造した四谷シモンさんの発想力。ブリュッセル万博遺跡の中に展示される大阪万博展示のモチーフとなった作品展示。此処に日本のマグリット人形が並んだらなんて想像しているだけで、ワクワクした。
マグリットには”ゴルコンダ”と言う顔のある紳士が空中に沢山浮かんでいる絵もあって、こちらの方がせんい館に近いのかなぁ。
写真はアトミウムの入場パンフレット。高さは102メートル。エキスポタワーは127メートルだったけど一番上の展望室の高さは、大体同じ位かなぁ。球体とキャビンだけど幾つかの展望室が個々に配置されている処が似ている。
アトミウムで買った冊子に写っていたリニューアル工事中の写真。2002年にリニューアル工事が行われる前はどんな感じだったのだろう?1958年ブリュッセル博閉幕後アトミウムはずっと公開されていたのだろうか?
冊子は英語とオランダ語表記となっているが閉幕後のアトミウムがどうなっていたのかを読取る事が出来なかった。大阪万博のエキスポタワーの様に会期後一旦閉館し、その後再公開されたのだろうか?エキスポタワーの場合、1972年の再オープンから1990年の再閉館まで公開されていたがアトミウムの場合どうだったのだろう?
冊子に出ていた一枚の写真。これは...苔。あっ!と思った。これはあの大阪万博施設の写真と同じ風景。
アトミウムの球体内部には苔が生えていた。使用されなくなったキャビンと球体に生息していた苔。これは偶然なのか、元々この様な場所には苔が生えてくるものなのか?
この様な状態と言う事はリニューアル迄一般人の出入りが無かったと言う事ではないだろうか?グーグル英文訳が正しければこの球体は数年間もの間放置されてきたとある。それがいつからなのか解らないが博覧会後も公開されていたアトミウムもいつの頃からか中に入る事が出来なくなっていたのでは?
あの万博施設の写真。それは大阪万博エキスポタワーキャビン内部。2003年開催されたヤノベケンジさんの個展「MEGALOMANIA」(誇大妄想狂)のポスターにもなったタワー内部。 再閉館し人の出入りが無かったキャビン。老朽化で出来たパネルの隙間から胞子が舞い込み苔やシダが生息していた。
黄色のアトムスーツを着て封印されたキャビン内部にオフィシャルに佇むヤノベケンジさんの羨ましい風景。
この展覧会でヤノベさんはエキスポタワーのキャビンのパネルやジョイントなど廃材を使用し「タワーオブライフ」と言う作品を作った。降ろされたキャビンと言う「落ちてきた未来の果実」の中に生息していた苔も未来へ伸びてゆく生命体として作品の一部となった。
タワー解体が2002年、アトミウムのリニューアル工事が2004年。撮影はその直前としてほぼ同時期、日本とベルギーの2つの無人となった万博遺産内空間に生息していた苔。片やリニューアル片や解体と言う。真逆の運命を辿った万博のシンボルタワー。
100メートルの高さから降りてきた未来の芽は、そこからまた未来へ向かって伸びていく筈だった。タワー解体から、早18年となる2020年。今だったら解体を逃れたかも知れない。あと少し待ってくれたらなぁ。
会期終了後キャビンパネルで作られた作品外周部はタワー跡地に置かれ「MEGALOMANIA」と刻まれた石碑が傍に設置された。その後、石碑は消え「タワーオブライフ」は敷地内の元々タワーの部材があった場所に移動され、何故かまとめて当時のシルバー色に塗り替えられた。
そして元タワーオブライフとなったパネルは2010年新装開店した鉄鋼館EXPO70パビリオンに元エキスポタワーとして、パネルの表裏を組み換えられて屋内展示室ホワイエ奥に展示されたが現在は建物入口脇の屋外に出され何とも不遇(私にはそう見える)な余生を送っている。
元タワーオブライフの呪縛を解くため解体し、もう少し重要文化財並の扱いをして欲しい。もっと廃材を取って置いてくれたら70パビリオン内にエキスポタワー記念室位出来た筈。非常に残念だ。
タワー解体から14年の2016年夏。久しぶりに訪れたタワー跡地。これまでも跡地は何かしらの変化をしていて多くの謎かけをしてきたが今回はアスファルトの残骸が盛ってあった。そしてそのアスファルトの向こう側に「あっ!」思わず唸った。
あれはタワーのジョイント。何故此処に?
ズームしてみる。これは...元「タワーオブライフ」の部材となっていた元エキスポタワーのジョイント。そしてその横には一旦消えた筈の「MEGALOMANIA」の銘板が。またもやの”タワー跡地からの謎かけ”。
今頃何故この場所に?何度か跡地に来ていたが以前は無かった。(筈)その日は記憶に残る程の酷暑でまるで蜃気楼でも見たのかと思った。
「タワーオブライフ」のパネルは一時この場所に戻って来ていたと書いたけどジョイントは初めて見た。一緒に使われたエレベーターのパネルも残っているのかなぁ?
2019年11月の時点で、この状態は確認出来ているが東京の菊竹事務所以外に残っているタワージョイントは、もしかしてタワーオブライフに使用されたこの1個だけかも知れない。
重要文化財級博物館行きのタワーのジョイント。何故此処にある?と問えばタワー跡地だからと言う理屈もある。「MEGALOMANIA」(誇大妄想狂)の石碑が何故此処に?と問えば...?だけど、タワーがあった空間を見上げ「あぁ。残っていたらなぁ」と妄想している。しかしキャビンに生息していた苔...何処かで生きているのかなぁ?と更に妄想してみる。
タワー跡地に関してはタワーオブライフの今とかタワー跡地の今 とかタワー跡地の今リターンズとか帰って来たタワー跡地の今 とか 色々書いているので良かったら。
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幻のせんい館人形をさがせ!リターンズ 3。
http://gtmgtm.exblog.jp/28055371/
2020-04-26T18:24:00+09:00
2021-01-17T01:36:07+09:00
2020-04-26T18:24:42+09:00
banpakutantei
万国博
幻のせんい館人形をさがせ! 遂にマグリット人形4号まで来た。現在の居所は香川県坂出市の四谷シモン人形館 淡翁荘。入口でお出迎えしてくれる。
これは唐十郎さんの山中湖湖畔の別荘兼稽古場兼倉庫にあったもので、万博終了後シモンさんの元に帰って来た2体の内の1体。
人形館は淡翁荘と呼ばれ鎌田醤油と言う醤油会社元オーナーが昭和11年に建てた洋風の迎賓館。シモンさんの人形の住処にピッタリな場所。人形館は2004年の開館だがマグリット4号は2011年にやって来たそうだ。
現存が確認されている内の1体がシモンさんの人形館と言うあるべき場所にある事実。大阪万博以来、巡り巡って此処に納まった奇跡とも言える。
(すいません)ネットで拾った画像。マグリット4号が唐十郎さんの湖畔の別荘にあった時のもの。この場所で、この人形を見た人は極僅かなのではないだろうか?
現存する4体の他に万博終了後に確認されているが、その後幻となったものもある。幻1号2号は大阪平野区のテーラーにあるマグリット1号と共に貰われてきた3体の内の2体。
内1体の幻1号は前々回マグリット2号なのでは?との仮説も立てたが裏付けるものは無い。幻2号は中身がどうなっているのか解体実験されてしまったそうだ。
幻3号は倉敷の倉紡記念館に行った一体。万博終了後に発刊された記念誌”せんい館”には大阪万博でのせんい館を末長く伝えて行くべく”せんい館”特設コーナーを設ける予定と記載され、展示されていた大しめ縄と共にマグリット人形も展示されるイラストが見える。
現在も倉紡記念館はあるが、せんい館の特設コーナーは無い様だ。ネットで画像検索してみると大阪万博の展示は少しある様だがマグリット幻3号は無い。
せんい館特設コーナーは何時頃迄あったのだろうか?展示されたいたとされる幻3号は何処かで保管されているのだろうか?いかんせん、これも万博閉幕直後となれば約50年も前の出来事。多分リニューアルか何かのタイミングで撤去されたのだろうけど、蔵の街、倉敷。何処かの”開かずの蔵”に保管されている可能性は高い。
これは万博友達Oさんの証言。千里中央駅ショッピングモール、セルシーの、この付近にあった洋品店の前にマグリット人形はあったと言う。写真は2006年のものだから当時とは別の店舗かも知れない。
Oさんの記憶力は抜群なのと、当時の記念協会の方からも「確かにあった」との証言も得ているけど、これもやはり約50年位前の話。これが幻4号。
2016年10月、日経に出ていたマグリット3号。持ち主のビリケン商会三原さんへの取材記事。ビリケン商会は日本で最初の古いおもちゃ専門店として1976年にオープンしたが現在ではガレージキットの企画販売も行っている。
販売と別に個人的に昭和40年代のものの収集を約40年続けているそうだ。そんな品物に囲まれた生活..憧れる。で写真の中に見つけたマグリット人形。
ガレージキットで販売してくれないかなぁ。15体(シモンさん説)並べてせんい館の世界を再現したいなぁ。
ビリケン商会三原さんの記事の横に載った「文化往来」と言う記事。明治時代に起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって離れ離れになった対の仏像...廃仏毀釈とは仏教寺院、仏像、経巻を破毀(はき)し仏教を廃することを指し「廃仏」は仏を廃し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊す仏教弾圧運動の事。
奈良興福寺の五重が、25円とか250円で売りに出された話が有名だがこれにより日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。
何故この様な事が起こってしまったのかは様々なサイトに出てけど奈良の風景に欠かせない興福寺の五重の塔も無くなってしまっていたかもと考えると、ゾッとする。亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、奈良入江泰吉「奈良大和路」和辻哲郎「古寺巡礼」以前の出来事である。
興福寺の仏像も2000体以上も無くなってしまったそうだ。きっと全く想像出来ない素晴らしい仏像も含まれていた事だろう。そう考えると今残っている素晴らしい仏像の数々、よくぞ残ってくれたなぁ。
阿修羅、北円堂の無著、世親像などを明治21年に撮影した白黒写真がある。それらは現在と違い一緒に並べられ、阿修羅を撮影した最初の写真と言われているが、その腕の何本か折れてしまっていて現在の様に合掌していない。廃仏毀釈との関連は解らないが興福寺がいかに荒廃していたのかが解る写真でもあった。
廃仏毀釈で無くなってしまった寺院や仏像、荒れた講堂に立つ腕の折れた阿修羅の白黒写真にエキスポタワー、万国博美術館、ホール等々の万博遺産の撤去を重ねてしまう。エキスポ70パビリオンとして復活した鉄鋼館や公開された太陽の塔内部の生命の樹、行方不明の地底の太陽など、似た様なものだった。
記事は廃仏毀釈で離れ離れになっていた仏像が何と112年ぶりに対で展示されると言うものだ。
万博閉幕後離れ離れになって15体とも20体とも言われているマグリット人形。半数以上の行方が解っていない。運び出されぬまま、せんい館と運命を共にしたものもあったと思われるが、何時か新たな兄弟が発見される可能性もある。
確認されているマグリット人形4体。いつか一同に会し並ぶ機会が無いかなぁ。只、元の場所に戻る時解らなくなってしまうので一応何処かにナンバリングしておく事が必要だ。
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幻の せんい館人形をさがせ!リターンズ2。
http://gtmgtm.exblog.jp/28030569/
2020-04-06T01:06:00+09:00
2020-04-18T09:19:06+09:00
2020-04-06T01:06:00+09:00
banpakutantei
万国博
前々回、私が実際に見た順番に付けた№1号、2号の大阪万博せんい館のマグリット人形。現存するのは4体とされている内の3号、4号について。
2020時点での居場所は3号は東京青山のビリケン商會さん。4号は四国香川県の四谷シモン人形館にあるが元々この2体は大阪万博終了後作者の四谷シモンさんの元に戻って来たものらしい。
ビリケン商会さんの展示で数年ぶりに人形と再会をした四谷シモンさん。そのページに頂戴したシモンさんのサイン。この時は2体しか残っていないと思っていたそうだ。
著書によれば万博終了後、役者でもあったシモンさんのアパートに2体のマグリット人形が戻ってきたが置き場も無く、出演していた状況劇場の唐十郎さんに引き取ってもらったそうだ。
マグリット人形は唐さんから「ヨーロッパ」と名付けられ「吸血姫」と言う公演の舞台装置として登場した。ヨーロッパ」...それはこの姿からイメージしたのか、ルネマグリットがベルギー出身からなのか現在のEU諸国を全部一緒にして「ヨーロッパ」としたのかは解らない。
写真は四谷シモン人形館のリーフレットから。「吸血姫」は京都、仙台、渋谷、吉祥寺を巡業し渋谷ではパルコが建つ前の駐車場だった土地にテントを張り公演したそうだ。
写真は多分渋谷の時のもの。この頃の渋谷は未だ薄暗い町だったそうだ。駐車場に立つ「ヨーロッパ」 。シュール以外の言葉が浮かばない。舞台に登場したのは2体中の1体だったそうだ。
「吸血姫」の舞台。手前が女形に扮したシモンさん。この公演は大変な人気を博したそうなので、当時見た方も多数おられると思う。どの様なキャラクターとしてマグリット人形は登場したのだろうか?
この公演の終了後、山中湖畔に建てられた唐さんの「乞食城」と名付けられた稽古場兼倉庫の完成パーティの日に運び込まれた。なんとその日の天候は大嵐だったそうだ。湖畔の別荘に大嵐の日に運ばれたマグリット人形。ドラマのワンシーンの様だ。
この時点で別荘にあったマグリット人形は2体。この内の1体が2000年に開催された「四谷シモン展」で展示され会期終了後、ビリケン商会がシモンさんから購入したのだそうだ。この人形はビリケン商会さんでも展示され、埼玉、東京、千葉でも展示された。
つまり、この1体が見た順番からすると私にとってのマグリット3号となる。「吸血鬼」に登場したものが3号か4号かは解らない。
2012年、埼玉県立近代美術館「日本の70年代」展のリーフレット。せんい館のスタンプの印影とマグリット人形。
意図したものなのか帽子からレーザー光線の様に文字が飛んでいる。
1つ下は2015年、東京国立近代美術館で開催された「大阪万博デザインプロジェクト」での展示。この時はガラスケースに入れられていた。展覧会の図録の表紙は、ありがちな太陽の塔では無くエキスポタワーの渋い白黒写真となっている。
その下は2018年千葉市美術館での「1968年 激動の時代の芸術」展での展示。埼玉の内容と結構似ていた。台座にはシモンさんのサインが見える。これは貴重だ。
「大阪万博デザインプロジェクト」の図録を読み返すと、横尾忠則さんの寄稿が載っていた。当時未だ大企業からの依頼は殆どなくマイナーな劇団や出版社の仕事が中心で、どちらかと言うと反博派の横尾さんの元へ舞い込んだ国家事業、万博。経験のない建築の仕事だったが、一世一代の大仕事。未知のジャンルではあるが挑戦的な意欲に後押しされ引き受けたとある。
建設途中の状態で凍結したい衝動に駆られ、それを実現させる経緯。工事の人形の型は人体モデルから取った話など、横尾さん自身が寄稿されている事が興味深いし、せんい館はどこまでが...どれとどれが横尾さん作品なのかが解る。
せんい館前に建っていた、映画看板だって、どう見ても横尾さんの作品だけど裏付けが無いなぁと思っていたけど、やっぱり横尾さんのものだと解った。
パビリオンの中には四谷シモンさんのマグリット人形が並んだり、植松国臣さん、秋山邦晴さんが携わっていたり、パビリオンの頭部などには吉村益三さんが作ったカラス(そう言えば横浜美術館が吉村さんのカラスを保有しているんだけど万博の時のものか解らない)が置かれた。
色々な方が携わったにせよ、せんい館は横尾”ワールド”パビリオンであった事に間違い無い。そして...当時酷評されたと言うが現在評価の高い、せんい館に入っていない当時の私...。
2025年 第2回大阪万博。是非 横尾さんに、新しいせんい館を作ってもらいたい。マグリット4号は、また次回 幻のせんい館 人形をさがせ!リターンズ3にて。
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祝 EXPO70パビリオン開館から10周年。
http://gtmgtm.exblog.jp/28002363/
2020-03-13T03:49:00+09:00
2021-01-17T01:41:51+09:00
2020-03-13T03:49:45+09:00
banpakutantei
万国博
大阪万博50周年の今年2020年。一般的には大阪万博50周年がクローズアップされているけど、10年前大阪万博40周年の本日3月13日はEXPO70パビリオン開館記念日。祝開館10周年となる。遂数年前の出来事かと思っていたらもう10年も前の出来事。
写真は万博記念公園駅の横断幕。解体の噂が絶えなかった鉄鋼館が万博メモリアルを核としたEXPO70パビリオンとして復活するニュースを聞いたのはいつの事だったのだろう。
何処かで何かの力が働いたのだろう。あの時の嬉しさと言ったら...万博メモリアルパビリオンの開館と言うよりも鉄鋼館が残ったって事の方が嬉しかった。1970年以来一般人には閉鎖されたまま秘境となっていた鉄鋼館の解放。10年前には何を書いていたのかなぁと見直してみれば相変わらず”EXPO70パビリオン開館まで”などとカウントダウンしていた。
開館記念式典への一般人の参加は抽選で行われたと思う。万博友達のYさんから誘っていただいたお陰で参加する事が出来た。今でも凄く感謝している。参加出来て本当に良かった。
当日の天候は今にも雪でも降りそうな寒々とした見事な曇天で、それはそれで大阪万博開幕式前日をイメージさせた。
記念式典でのテープカットシーン。故堺屋太一さん、コシノジュンコさん、橋爪さん、河内屋菊水丸さん、嘉門達夫さんなど、そうそうたる万博関係有名人。
片や客席を見れば、そうそうたる万博ファンが多数列席されていた。記念式典に列席するなんて”かなりな万博ファン”以外にいないので至極当然の風景でもあった。
会場で流れた”世界の国からこんにちは”には本当に感動した。万博男の万博年表においてあの日の記念式典への列席は深く刻まれている。
写真は当日テープカットに使用されたリボン。鉄鋼館からEXPO70パビリオンと名を変えた記念日。鉄鋼館は元鉄鋼館となったけどパビリオンは元パビリオンでは無く名前からしてパビリオンと言う名前が付いていた。
10年前のブログに書き損なってしまったので、万博探偵事務所資料室(秘公開)で熟成させていたEXPO70パビリオン10周年の、この日の為に取って置いた歴史の舞台で使用された貴重な逸品。
当時も書いているけど、この日見た展示品で一番の衝撃。幻のスカンジナビア館の幻のスカンジナビアンパビリオンのパンフレット。石狩に移築されたスカンジナビア館改めスカンジナビアンパビリオンのパンフレットが何故此処に?オープン後万博記念協会に送られてきたのかなぁ?
「これはスカンジナビア館のものでは無く石狩に移築されたスカンジナビアンパビリオンのパンフ....なので(凄く興味があるので)中身を見せてもらえませんか?」と係の人にお願いした処、「間違えていてけしからん!」と解釈されたのか、このやっとお蔵から出てきた幻のパンフレットはその後他のものに変更され、再びお蔵に入ってしまった。
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鉄鋼館のホワイエはマニアエキスポなどのイベントで開放される事があったが”紅の回廊”からの内側、音楽堂の公開は一般人的には1970年以来の事となる。まさにレッドゾーンへの突入が実現した訳だ。
開館が待ちきれず約一か月前にも訪れた時、鉄鋼館裏には内部改造で出た残骸が幾つか落ちていた。その中には紅の回廊の一部と思われる深紅のカケラも発見した。
そんな節目となる開館10周年。現在の企画展は「知る、見る、遊ぶ太陽の塔」。パビリオンでは何か記念イベントがあるのかと思いきや...特に何も無さそうだ。
更にコロナウィルスの影響でパビリオンは本日も閉館したままだ。太陽の塔内部公開も閉鎖中。仮に記念イベントがあったとしても中止となっていただろうけど、コロナの影響があっても無くても残念ながらイベントは行われなかった様だ。
コロナで休止中だが、現在行われているイベントの案内にも10周年の文字は見当たらない。この10年、全部でいくつ位の特別展が行われたのだろう?年2回、行われたとして20回もの特別展が開催された訳だ。
思い出してみると面白い企画が結構あった。パビリオンでやる以上、万博に特化した企画な訳でネタも出尽くし気味かも知れないので企画作りにもかなり苦労しているのでは無いかと思う。
”エキスポ70パビリオン、10年の歴史を振り返る。”なんて振り返ったら今年中にも書ききれないかも知れない。
EXPO70パビリオン10周年の、ノーアナウンス。まさか 私の勘違いで10週年は来年なのか?1.2.3と指を折って数えてみたがやはり今年が10年。まさか関係者の誰もが憶えていないのか?
10年前の今頃書いていた事はこのあたり。
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幻の大阪万博 せんい館人形をさがせ!
http://gtmgtm.exblog.jp/27994268/
2020-03-06T00:42:00+09:00
2023-09-17T09:41:49+09:00
2020-03-06T00:42:49+09:00
banpakutantei
万国博 岡本太郎
前回、「何でも鑑定団」の次週のテロップを見て半分期待を持って「まさかマグリット人形?」と書いたが登場したのは何とまさかのマグリット人形で驚いた。
過去「幻のマグリット人形をさがせ」とか「見えてたものを確かめに」「マニアエキスポ マグリット兄弟」など書いてきたけど、まさかテレビで見る事が出来るとは。
大体「大阪万博の不気味な」ものと言えばせんい館にあったマグリット人形しかないけど、あの人形をテレビに出して良いのかと思った。
布を被され登場した四谷シモン24才の時の作「ルネマグリットの男」。通称マグリット人形或いは、せんい館おじさん。「お宝オープン!」と布を取ってみれば、「おぉぉぉ」と、どよめく会場。
紛れもなく、そこに立っていたのは大阪万博せんい館のマグリット人形。まさか地上波画面で見る事が出来るなんて!感無量だ。
一体マグリット何号なんだ?4体の現存が確認出来ているけど依頼人は東京の方。えっ?まさか5体目のマグリット人形?
公式記録では20体、シモンさんの著書では15体製作されたとするマグリット人形。当時の館内の写真を見ると13体までは確認出来る。
実際に私が実物を見た順番に番号を付ければ2000年に見た大阪市平野区のテーラーの店頭に置かれたものがマグリット1号。
2007年のマニアエキスポに展示された神戸の方所有のものが2号。2012埼玉、2015東京、2018千葉で展示されたビリケン商会さん(以前はお店でも展示された)所有のものが3号。香川県四谷シモン人形館に展示してあるものが4号となる。
その他、万博閉幕後岡山のクラボウ記念館に展示してあった幻5号。千里中央の洋品店の前にあったとされる幻6号。平野区のテーラーには当初3体あったそうで内部を調べる為に壊してしまった幻7号と知人に譲ったと言う幻8号がある。
何しろ皆同じ(多分)姿をしているのでどこかに番号でも書いていない限り、どれがどれだか見分けがつかない。
気になる出処は?「神戸の友人から3年前に100万円で購入した。友人は蚤の市で買ったそうだ。」との事。蚤の市と言えば2007マニアエキスポで展示されたマグリット2号である事が濃厚だ。
後日、関係者から裏付けとなる証言を得た。よって鑑定団に出たものは”私にとっての”マグリット2号と同一のもの。残念だが新たな発見マグリット5号では無かった。
さていよいよ鑑定。果たして結果は?依頼人は購入価格の100万円を付けていた。
何と驚きの五百万円の評価額。高額だけど当然の金額だろう。もし私が鑑定師だったら更に上の金額を付けていただろう。
2019年秋EXPO70パビリオンで開催されたイベント、万博遺跡のその後を追いかける「大阪万博ビフォーアフター展」では私の写真も数多く展示して頂いた。
現存する4体のビフォーアフターも紹介され、その中のマグリット1号の写真は私が撮影したもの。
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左は2007年マニアエキスポでのマグリット2号。
ビフォーアフター展での2号のキャプションを抜粋すると「1990年梅田で映画の帰りに、お初天神の境内をのぞくと、そこにはかつて大阪万博のせんい館にあった人形が立っているではないか!愕然(がくぜん)として見に行くと、それは恒例の蚤の市で”平野の業者”が持ってきたものでした。
ハトの糞が肩口にかかっていたとは言え、これは即決で購入。神戸まで運んでもらいました。その後阪神大震災で左腕が脱落、指も折れたが修理して家に置いてあります。
当時は何かボソボソと喋っているというギミックがあり(胸の中にテープレコーダーが入っていたと思われる)そのため音出し用の穴がシャツの下に空いています。テープレコーダーの電池は頭が外れたので、そこから替えていたのでしょうが今は間違って接着してしまったので、もう取れません。帽子正面のレーザー光線あやとりミラーは買った時には無かったので後から足していますが塗装や布などは1970年当時のものです。」
左は平野区のマグリット1号。初めて見た2000年は店の外に立っていた。この頃は未だデジカメで撮ってない。
2号のつづき...マニアエキスポ当時は帽子のあやとりミラーは付いておらず写真の様に小さな穴が空いていた。いっしょに撮った写真では直した指も確認出来たし左手肩口には、鳩の糞の跡らしき白い汚れが付いていた。
しかし...1990年と言うと万博開催から20年。その間この2号は何処に?新たな疑問が浮かんできた。
お初天神と言うのは大阪曽根崎にある正式名称を露 天神社(つゆのてんじんしゃ)の事だそうだ。近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」のヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれているそうだ。てっきりお正月の天神様なのかと思っていた。
人形浄瑠璃、ゆかりの地に立っていた大阪万博ゆかりの人形。それは”平野の業者”が持ってきたと言う....平野区...それはもしや前述した平野区のテーラーに持ち込まれた3体の内の1体...知人に譲ったと言う幻の8号? マグリット2号は幻の8号と同一の個体なのか?
写真のキャプションを読んで何が凄いって...万博20年。何気に立ち寄った蚤の市で遭遇したせんい館の人形に即反応、即購入したと言う事。私がもしマグリット人形に遭遇したとしても購入まで行くかどうか?
この人形を所有するには相当な覚悟が必要だ。不気味なマグリットと共に暮らす覚悟。大きすぎるので押入れに入れる事は出来ず部屋に置くことになるだろう。朝のおはよう。帰った時のただいま。夜のお休み。マグリット人形を所有すると言う事はマグリット人形と共に生きると言う事。
左写真 店内で撮影させて頂いたマグリット1号。2007年11月撮影。
放送の数日後、東京で万博イベントが開催された。2007当時マニアエキスポの後、展示してあったマグリット人形をある方が買うかも知れないって話を聞いた事を憶えていた。
ある方とはイベントで万博映像を解説される橋爪 紳也さん。私よりずっと前に万博遺跡を追いかけた方。博覧会、大阪に関する書籍を何冊も出し、2025大阪万博誘致に尽力された。
「07年のマニアエキスポに展示されたマグリット人形が今週の何でも鑑定団に出てきたんですが当時先生が購入する予定があったって話を聞いた事があるんですが、どうだったんですか?」
おっしゃられた返事に驚いた。「あぁあれね。僕の友人が蚤の市で10万円で買ったは良いけれど置き場が無くて10年位、僕の研究室で預かっていた。」
何と言う衝撃の証言。結局購入はしなかったけれど、10年もマグット人形と共に研究室で過ごされたとは!つまり朝、研究室に来ると「おはよう」。帰る時は「じゃ。また明日 留守は頼む」ってやってたかも知れなかったのだ。マグリットと共に歩んだ10年。研究室を人形が出ていく時は、寂しかったのかなぁ?
反射して見にくいけど、やはり2007年の撮影。店は約13年前に閉店したと言う。13年前...つまり2007年。ガラスに貼られた”売りつくし”の文字が確認出来るだろうか?
洋品店店内に立つ人形のシュールな最終光景。2015年、元店主は人形と共に新聞取材を受けている。あれから更に5年。マグリット人形は未だいるのだろうか?
記事では四谷シモンさんと横尾忠則さんにも取材している。シモンさんは「そんな風に残っているなんて奇跡」と述べ横尾さんは「僕も工事作業員の人形を20体ほど作った。当時は作品として意識してなかった。あれも残っていればな。シモンさんが羨ましい」とコメントしている。
せんい館は横尾さんプロデュースになっているけど、どこまでが横尾さんなのかハッキリ解らなくて、この工事作業員の人形も横尾さんって明記した資料を見た事がなかった。この記事で御本人がコメントしているので横尾作品と確定できた。そもそも、この人形はせんい館の一部と考えればもっともな話でもあった。
20体ほど作ったと言う「赤い工事作業員」。本当に1体も残っていないのだろうか?誰かが持って帰っていても不思議じゃない。実は横尾さんの処に万博閉幕後1体戻っているけど完璧に忘れているって事ないだろうか?
いつか「何でも鑑定団」で「大阪万博 幻の横尾作品」なんてタイトルで出てこないかなぁ。こう書いてくると何処かに1体位残っている様な気が本当にしてきた。新たな課題が見つかった。タイトルは「幻の大阪万博せんい館 赤い工事人形を 追え!」だ。
07 マニアエキスポの様子はこのあたり。
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